『櫛挽道守(くしひきちもり)』 木内昇

 

櫛挽道守 (集英社文庫)

櫛挽道守 (集英社文庫)

 

 

時代は幕末。
木曽山間の藪原宿は「お六櫛」と呼ばれる梳櫛の産地である。代々、櫛挽を家業にする家が多いが、なかでも悟助の櫛挽は、神業とも神州一ともいわれるほどの見事さだ。父の技に魅せられた悟助の長女、登瀬は、母の松枝や妹の喜和の苦言にも関わらず、櫛挽にのめり込んでいく。けれども、女に家業を継ぐことはできない。母の仕事を覚え、父母の決めた相手と所帯を持つのが女の務めなのだ。
「仕方ない」と女たちは言う。代々の女たちが「生まれ落ちたときから、また人によっては悪あがきの末に、身をゆだねている言葉なのだろう」
悪あがき、なのか。
気概のある女たちそれぞれの抵抗が、ただの悪あがきにすぎなくなってしまう、救いようのない残酷さに、閉塞感に、たまらない気持ちになる。
それでも、櫛挽の仕事場である板の間に入り、父のもとで櫛挽を習っているとき、一途に仕事に精出すとき、登瀬は、女であることを忘れていられた。


いろいろな櫛挽が出てきた。
見事と言われる櫛それぞれには、挽いた人のその人らしさ、生き方までがにじみ出ているようだ。


ペリーの来航、開国、安政の大獄生麦事件和宮降嫁……社会から隔絶されたようなこの山間の里さえも大きな風が通り抜けたように揺れる。
ささやかな櫛挽の家族の暮らしにも風は吹いていく。
家族の有り様は変わる。風に吹かれ、風に浚われ、風をやり過ごし、あるいは、風に乗る。


目まぐるしい社会の変化のなかで、確かなものは、板の間から聞こえてくる櫛挽く音だ。呼吸のように規則正しい音は、読んでいる者の胸に心地よく響く。
世の中が動く。人も動く。広い世に足を踏み出そうとする人びとがいる一方で、動かない人の確かな存在感に、ほっとする。
一つ所から動かなければ何も見えないだろうか。世間に昏いままだろうか。
一芸を深く追求していく人にしか見えないもの、見極められるものがあることを誰が知るだろうか。
読み終えても、胸の内に櫛挽く音のリズムは残る。心地よく響く音を静かに聞いている。