『親になるまでの時間(前・後)』 浜田寿美男

 

 

 

 

七つまでは神のうち」という古い言葉がある。
子どもは、七つ(数え年六歳)までは神の領域に属しているが、七つすぎたら「人の世」に入らなければならないということだそうだ。
前編では、七つ頃までの子どもと、後編では、七つ過ぎた頃からの子どもと、親として関わっていくことについて、書かれている。


深く広くの内容で、何度も読み返したい本だと思うが、一読後の今、心に残った言葉を拾うなら……
前編(数え年七つまで)では、「こどもたちがそれぞれの力で生活を楽しみ、自分なりの世界をくり広げているかどうか、また親としてこどもにその手持ちの力を使う機会を十分提供できているかどうか」を考えることが、よその子と比較するよりずっといいということ。
子どもの言葉が育つために必要な事は「こどもがそのときの手持ちのことばを十分に使って、周囲とコミニュケーションする喜びを味わうこと」それ以外に、ないのだということ。
後編は、子どもが学校にあがってからのこと。
「生きる力」という言葉があるが「生きる力を身につけるためには、まずはいまをちゃんと生きる以外にありません」
明瞭で清々しい言葉だけれど、実行するのは容易ではない。それは何故だろう。


前編と後編では親と子の関わり方も大きく変わってくるが、一貫して変わらないものもあり、それが、後々(きっと大人になっても)のいろいろな問題の根っこに繋がっているように感じた。


たとえば、「平均」「みんなと一緒」という言葉。我が身を振り返り、とても根深いと感じている。
平均身長、平均体重……歩き始める時期、おしゃべりを始める時期……子どもが生まれたときから、育児書と首っ引きで気にかけていたことは、ほかの子どもたちと我が子を比較するということだったんだ、と思い至る。
「平均」は「人を集団単位で見るときの一つの物差しにすぎない」
「平均という見方。そこには人間の自然をゆがめてしまう「危険の種」がしくまれているように思うのです」
と著者は言う。
自分が子どもだった頃や、我が子が小さかった頃を振り返ってみれば、その時、できなかったことが後に、いつのまにかかできるようになっていたり、ずっとできないままのこともあった。だけど、それはそれで、なんとかなっていったのだと思い出す。
できないことがあったおかげで、別の道への扉を開けられたことも多々あったと思う。
それなのに、それでも、やっぱり「みんなと同じ」であることや、「平均」から零れないことに拘っていたんだなあ、と思い出す。
拾ってきたドングリの形や色、大きさが違う事なら、それが自然と思えるのにね。
たとえば、「いじめの構図を乗り越えるには」の章には、こんな言葉がある。
「いじめの背後にあるのは、この多様性を無視し、多様なものを上下の価値尺度にならべて人を評価してしまう人間の心性です」


親が親になるまでには時間が必要なのだ。
とっくに子育て終了の私が、未だに親になりきれていない、と思うのは、平均や比較の呪いから今も自由になっていない、と感じてしまったから。
この先、まず自分自身が自由になるためにどうしていこうか、と考えている。