『忘却についての一般論』 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ

 

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1975年。アンゴラポーランドから独立を勝ち取ったものの、内戦状態になり、恐怖時代に突入してしまう。
首都ルアンダの高級マンションの最上階の姉夫婦の家に身を寄せるポーランド人のルド(ルドヴィカ)は、ひらけた場所が苦手で、もともと家にこもりがちだった。
その日、出かけた姉夫婦に何か恐ろしい事が起こり、もう戻らないことを知り、ルドは、部屋の前にセメントで壁を作り、籠城する。そして、閉ざされた家(と、屋上テラスと)のなかで、犬とともに自給自足を始める。
備蓄食料もあり、数か月は余裕で暮らせる、と思ったルドだったが、三十年近く、誰にも知られずに籠って暮らすことになろうとは。
屋上庭園にはバナナや柘榴の樹。ほかに豆やトウモロコシを栽培する。雨水をためて飲料水にする。罠を作って鳩をつかまえる。床材や家具、図書室の本を燃やして煮炊きする。
木炭で日記や詩を壁じゅうに綴っていく。


ルドの部屋の外側は混乱を極め、いろいろなことが次々に起こっている。時代は目まぐるしく変わっていく。次々に現れるたくさんの人びと。それぞれの物語が、短い断章で語られる。
残酷な刑吏。泥棒。思想家。いかさま師。ギター弾きに詩人。探偵。乞食。浮浪児。そしてただ誰かに寄り添おうとするだけの人びと。忘れられた恋人たち。民族も様々、暮らし方もさまざま。行く末もさまざま。


物語は、ひきこもったルドの章と騒々しい外の章とが、ほとんど交互に置かれているが、その対比は、極端なくらいの静と動で、リズムを刻んで流れる音楽みたいだ。


外の章では、覚えきれないほどのたくさんの名前たちが、脈絡なく現れて……と思っていると、ある章の中で、別の章にいた誰かと誰かが思いがけない繋がり方をしていて、あっと思う。
そして、その都度、そこに関係する人たちの別の面を見せられて驚いてしまう。
起こった事件も、別の章の中では、全く別ものに見えたり。
物語が、人と人とをつなぐ大きな迷路になっていく。


さらに、不思議でおもしろいと思うのは、完璧に外界との接触を遮断したはずのルドでさえも、外の世界と思いがけない方法で繋がっている事を知ったことだ。それも極めて大切な役割を担って。それもいくつも。
出会いが織り成す不思議に何度も驚いてしまう。
だったら……壁の一本のくぎを抜かずにおくことが街を救うことになる(という話もでてきたのだ)ということも、本当に、ありうるかもしれない。


生きてここにいることの不思議さ。
たとえ、何もできなくても、すべての人に忘れられてしまったとしても、生きてここにいる、それだけですごい事かもしれない。
最後まで何も知らずに終わったとしても、思いがけないときに思いがけないところで、私たちはどこか別のところと繋がっているかもしれない。だれかが、どこかで、その繋がりの糸を不思議に思いながら、そっと撫ぜているかもしれない。
そんなことを考えている。


ルドを三十年もの間、この場所に捕らえてきたものは、彼女の恐怖だった。外から聞こえる群衆の怒声、懇願、悪態に取り囲まれて。そのルドが時に「自由だ」と感じることがあったこと。「わたしはこの部屋で幸せだった」と壁の詩に書いている事。
これは余計なことではあるけれど、コロナ禍を避けたくて閉じこもった(といっても極めてゆるくだけれど)私たちの暮らしを振り返りながら、ちょっと励まされるような気がしている。