『書記バートルビー/漂流船』 メルヴィル

 

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

 

*『書記バートルビー
「私」はウォール街で法律事務所を営み、「お金持ちの方々の債権証書や抵当証券、または不動産権利証書などに囲まれて、気分よく仕事をする」弁護士だった。
ところが、「私」が雇った新しい書記バートルビーは、決まった仕事以外の用をいいつけると「そうしないほうがいいと思います」の一点張り。その拒絶がどんどん膨らんできて……。
「私」のあまりの人の良さにイライラし、どうしても追い出すことのできないバートルビーが貧乏神に思えたりした。

ところが、巻末の牧野有通氏の「解説」を読み、あっと思った。
メルヴィルは『金』を『神』以上に崇拝するキリスト教社会、そしてその社会の奴隷となっている人間の悲喜劇を描きながら……」の部分を読み、物語が私の目の前でさかさまになったような気がした。
そうしてみれば、物語を読んでいる間、ずっとイライラさせられてきた「私」の人の良さの意味も変わるのだ。
どこまでもバートルビーの存在が気になってならないのは、「お金持ちの方々」のために働いてきた「私」の心の立ち返るべき場所がそこにあるからだろうか。
見たくないけれど、無視もできなくて、どっちつかずのままおろおろするしかなくて……バートルビーも「私」も目を開ければ、どこにでもいる。「私」はわたし。バートルビーは……無視するのか、見ないふりをするのか……


*『漂流船』
無人島に投錨中の大型のアザラシ猟船のデラーノ船長は、見知らぬおかしな船が湾内に入ってきたことを知る。それはスペインの大型奴隷運搬船サン・ドミニク号で、大嵐と長期の凪にさらされて、大半の船乗りも船荷も、水も食料も失くしてしまっていることを知る。
さっそくデラーノ船長は、サン・ドミニク号にボートで乗り付け、船長のドン・ベニートに、援助を申し入れる。しかし……様子がなんだか変なのだ。ドン・ベニートは、長い不遇のせいで、病気になり気もそぞろになっている様子だ。ぴったり付き従う黒人従者のバボウにもたれかかり世話をされている……。甲板で忙しく立ち働く船員たちもなんだか様子が変だ。
不穏な空気が流れる船の上。デラーノ船長を乗せてきたボートは彼一人だけを残して、立ち去っている。
実は、この物語のあらすじをすでに知っていたが、知っていても……この状態は恐ろしかった。デラーノ船長の人の良さについては、『書記バートルビー』の「私」とよい勝負だ。
読者のほうは危険を、いやってくらいにわかっているのに、デラーノときたら、「おかしい」と思っても、まったく筋違いの推測をして、しかもあくまでも「何事もない」と思いたいのだ。
それが恐ろしくて、一行一行を読むのが、苦しかった。

これも、「解説」を読み、はじめて、見えなかった全体像が見えるようになる。
確かに途中「おや?」と思ったところはあったけれど、それは、そういう時代だったのだろう、と思って読み流した私は大ばかだ。
「かくして『漂流船』という作品は、南北戦争直前の時期に出版されていながら、奴隷制の本質をすこしの弛緩もなく描いているだけでなく、先入観にとらわれている一般の白人層には直接的に反発させないだけの仮想劇として提示されているのである」
二重の仕掛けのある(かなり意地が悪いともいえる)こんな小説を描きだすメルヴィルってすごい。私は見事に一般の白人層(実際わたしは白人ではないが)に嵌って読んでいた。
読んでいる最中に、何も知らぬまま心動かされた言葉が蘇ってくる。
「……セネガルに戻る……」