『すばらしい新世界』 オルダス・ハクスリー

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)
 

 

きっと、喜々として移住したくなるような快適な世界が広がっているのだろう。それが、読み進めるにつれてだんだん雲行きが怪しくなるのだろう。
そう思いながら、この本を開いたが、まさか最初の一ページめから、驚きのディストピアぶりを見せつけられるとは。
このすばらしい世界では、徹底的な管理のもと、すべての人間が工場で生産されているのだ。
階級が、氷山型に決められていて、各々の人生はタマゴのうちに決まっている。
氷山の大部は、水面下の労働者階級だ。その階級のタマゴは、増殖の処置を受けて分裂し、一個は数十人(!)の多胎児となる。しかも胎児のうちに知能の発達を抑えられてしまう。社会の健全な歯車となるために。
胎児のうちは薬品等により、生まれてからは反射・刷り込みにより、自分が将来つくはずの仕事に満足する事や、その階級に属することを喜ぶこと、それから、社会の不利益になることを忌避するように、念入りに条件付けされていく。
この世界での不気味なシステムは、もう掃いて捨てるほどあるのだけれど、この、物語のさわりを読んだだけで、かなりのショックであった。
しかも、彼らはみんな幸せなのだ。
この新世界では、不幸せであることや、孤独であることは悪なのである。それらに結びつくから、科学も芸術も宗教も、悪。
そもそも、ものを考えることが悪。
思い煩わず、ばんばん生産して、ばんばん消費する。不安や怒りは、早めのソーマ(副作用の少ない麻薬)でさっさと処理して。
……ねえ、どのへんまでいったら、人は人でいられるのかな……


ぞっとしながら読んでいたはずなのに、やがて妙な既視感とともに、そんなに異常じゃないかも、と思えてくる。
すでに私たちはディストピアに暮らしているのではないか。そうとも気づかずに。


この新世界に、野蛮人居留地(!)で生まれ育ったジョンが現れる。
彼が愛するのは孤独、自由(苦しみや、死さえ含む)、信仰、母、克己の心。
それから幼いころから友にしてきた一冊のシェイクスピア全集。
物語中に散りばめられたシェイクスピアの引用句の多彩なこと。
ジョンのストイックさ、純粋さを前にして、恥じたり同情したりしている私は、いつのまにかこの世界に住み慣れた住人の一人になっていた。
彼の登場で、自分の身の回りを改めて見まわす。


「(あなたの世界では)不愉快なものは、それに耐えることを覚えるかわりに、なくしてしまう」と、ジョンは言う。
不愉快なもの、なくなってほしいもの、確かにある。だけど、それと一緒に、知らないうちに大切なものも手放しているのかもしれない。


二十年以上前、この新世界に生まれ育った女性リンダが、事故にあい、居留地の「野蛮人」に救われ、そこで出産したのがジョンだったのだ。
すでに出産そのものがなくなって、親という言葉さえほぼ死語になっている新世界で暮らしていた女性が、出産を経験して、自分の手で赤ん坊を育てる。孤独は恐ろしいもの、と小さい頃から擦り込まれてきたその女性が、行って帰るほど習慣も倫理観も異なる集落で、孤立しながら二十数年間……
ある日突然異空間に投げ出され、そこで生きることを強いられた、という点では、リンダもジョンも同じだと思う。どちらが耐えがたいか、といえば、一見リンダの経験のほうが耐えがたいものだと思うのに、リンダは生きのびた。
すばらしい新世界」が捨て去ってしまったものを、不潔で野蛮なはずの居留地が抱いて守ってきた。それが彼女を生かした、とは言えないだろうか。


「確かに現実はおぞましい――けれども、嫌悪を催すほど切実なものであるからこそ、この現在の現実は素晴らしく、意義深く、この上なく大切なのだ」
ジョンの言葉が心に残る。