『バージェス家の出来事』 エリザベス・ストラウト

 

バージェス家の出来事

バージェス家の出来事

 

プロローグでは、ある年配の母娘が噂話をしている。メイン州のシャーリー・フォールズのバージェス家の三兄妹についての。
長男ジムは、敏腕弁護士で、メイン州を出てニューヨークに暮らしている。
兄妹のなかで最も温厚な次男ボブも、今はニューヨークだ。
シャーリー・フォールズに残っているのはボブの双子の妹、気難し屋のスーザンだけだ。
三人の子どものときの印象、その後のこと、今のことなどが語られ、具体的なできごとなどは曖昧なものの、一家の外側の印象はなんとなくわかった。
プロローグで感じた、なんとなくわかったような感じは、長い物語のなかで、何度も表情を変えていくのだけれど。


始まりは、スーザンの息子19歳のザックが、さるモスクの正面玄関から、冷凍した豚の頭を投げ込んだことだ。
スーザンがまず兄のジムに電話で相談したことから、久しぶりに三兄妹が顔を合わせる。
各々の連れ合いや元の連れ合いも巻き込みながら、現在向かい合わなければならない事件への対処に翻弄される。
そして、少しずつ、彼らの見た目の印象とは違う部分が見えてくる。


三兄妹の結束力の強さに驚くが、それにはきっと理由がある。
三人とも、程度の差はあるものの、臆病だと感じた。
根にあるのは、昔(兄妹が八歳と四歳だったころ)起きた、ある事件だろうか。
三者それぞれにとって別々の意味をもちながらずっと後を引いている。
全く別の性格に見えて、全く別の生き方をしてきたように見えた彼らが、実は同じ根っこをもつ臆病さで繋がっているのかもしれなかった。
レオ・レオーニの絵本『スイミー』の小さな赤い魚のように、臆病な三人が肩寄せ合って大きな魚になっているようにも思う。


それから、家庭のこと。
ボブは、妹のスーザンの家で落ち着かない。家が寒い。ここは家庭ではない、と感じる。
一方、スーザンは後日、ニューヨークのジムの家を訪れて、ここは暗い、家庭とは言えない、と感じているのだ。
田舎町と都会の生活の違いもあるが、それぞれが思う家庭のイメージの根っこは、生まれ育った同じ家なのだろう、そして彼らそれぞれが抱えた臆病さから始まったのだろう、と思うと、おそろしいような、おもしろいような、変な感じだ。
彼らが、これぞ「家」と思えるのは、どんな家なのだろう。


メイン州は、アメリカ全体からみても、白人優位の州なのだそうだ。
白人ばかりの町に、多くのソマリ人移民(町の古くからの住人とは別の文化を持ち、この町に決して染まろうとしない、というふうに、町の多くの人びとは思う)を迎え、町じゅうがどうしていいかわからずに戸惑っている。
一方、ソマリ人、たとえばカフェをいとなむアブディカムは、出国しないではいられなかった故郷の惨状を思っている。殺された息子のことも。今、町を離れていくソマリの若者たちの順応性に驚きつつ、自分たちもいずれソマリ「系」アメリカ人になっていくかもしれないことに諦めと抵抗とを感じる。


なんとなく遠巻きにしながら近づきかねている町の二つの塊の間に、ザックの「豚の頭事件」は、投げ込まれたように思う。
理解するという言葉を文字で書くのは、簡単だ。でも、実際にそうするためには、なんて大きな見えない壁を越えなければならないことか。


バージェス家の三人の物語と隣人のソマリ人の物語は、布の裏と表だ。
そこに現れた小さな物語が(ささやかに語られる大きな物語が)心に残っている。
厄介事は解決したものもあればしないものもある。それでも(慎ましいあの人がもし何も言わなかったら、知らずに終わった)その小さな物語は、物語全体の色さえも変えた。