『ナイルに死す』 アガタ・クリスティー

 

 

巻頭の「訳者からのおねがい」に、
「はじめは少しゆっくり読んでください。登場人物表を参考にして、各人物の様子を頭に入れ……」と書かれているが、はじめのほうは、次々に場面が変わり、その都度、新たな人物があらわれては、あれこれ会話する。その人数の多いこと。登場人物表があってほんとによかった。
会話のなかで、ちらちら現れるのばエジプトという言葉で、これがやがてエジプトに集結する人たちだな、と思って見ている。
の、だが、エジプトに行くまでの、人びとのドラマの長いこと……。


はじめのほうで素敵だったのは、高級フランス料理店のオーナーが、ポアロをもてなしながら言った言葉。
「それでは、ジュールズに話して、詩のように素晴らしい食事を作らせましょ」
詩のような食事……どんなでしょう。おいしいとか、美しいとかではなくて「詩」。憧れる。
もちろん、ポアロもエジプト旅行を予定している。


そうこうするうちにやっと念願のエジプトである。
広大な大地に浮かび上がるような遺跡、逞しい土産物売りの子どもたち。むんむんする暑苦しさのなか、ゆったりとナイル川が流れ、クルーズ船が行き来する。ゴージャスな旅を楽しむお金持ちや身分ある人々が乗っている一方、ちょっと風変わりな人びとの存在感。
そこで、ついに殺人事件が起こり、付随する(?)いくつかの犯罪も起こる。
はじめのほうの(旅行前の)あの人この人のあの場面、あのセリフを、「あ、そういえば、あの時のあれは、こういう意味だったのか」と、何度も繰り返し、確認する。その都度、現在見えている光景は色を変えていく。


犯人は、動機は、と、それなりに推理し、ことごとく外れて、大いに驚き、それでも、それ以上に、探偵はどう解決するのか、ということが興味深かった。
ということは……「当然こうあるべき」法では、納得できないことがあるのだ。
大きな声を出さなければいけないときに、やっと小さな声しか出せないもの、あるいは黙っているしかないものに、寄り添いたい、との願いだろうか。
ポアロの出てくるミステリを読むのもこれで五冊目で、一貫して感じるものでもある。
洒落もの、自惚れ屋の一面で、ポアロの温かさがしみてくる。