『幸福について』 アルトゥール・ショーペンハウアー

 

  

巻末の「解説」に助けてもらいながら、読む。
始まりは、幸福になることが人生の目標ではない、ということ。
「人生とは、楽しむべきものではなく、克服されねばならぬもの、どうにかやり遂げねばならぬもの」なのだという。
そのうえで、「まずまずの人生」(=不幸でないこと)を過ごすにはどうしたらいいか、考える。


そうなのか……まずまずなのか。
「人生において私たちは幸福に出会うはずだという確固たる前提のもとに幸福を追い求めることが、青年期をどんよりとした不幸なものにしている」
というが、この年になっても、青年期なみに、扉を開けるたびにワクワクしながら「ほら、来てくれた」と出迎えたいのだ。そのたびにがっかりしたとしても。


大抵のことは「まずまず」でいい、と思いながら私は暮らしてきた。だけど、それは、もっと大きな、より完璧なもの(幸福)があるはずだ、と思っていたからなのだ。
ただ自分が選ばないだけで、あるんだと思いながら暮らすのと、そんなもの最初からなかったんだよと思うことは、ずいぶん気持ちの張りが違うように思うのだけれど。


人生の財宝(幸福の拠り所)は三つ。
一、その人は何者であるか(人品、人柄、個性、人間性
二、その人は何を持っているか(所有物、財産)
三、その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか(他人の目にどう映るか)
「一」と「二]「三」の違いは、自分自身の内側に求めるもの、外側に求めるもの、の違いだろうか。
三つのうち、大事なのは、一番目で、そこに幸福の源を置くのがよいのはわかる。
わたしの楽しみは、二、三に拠るところが少し大きいのだろうか。この本のいう「まずまず」が息苦しく感じるのは、それだからかな。


現実世界の出来事は、客観と主観から成り立っている。客観的には、それが、だれにとっても同じものであるのに、一人一人の主観によって、まったく別なものに見えること。
その人の内面が豊かであれば、「それ」は、豊かなものになるだろうし、貧しければ、それなりのものになってしまう。
「まずまず」の意味も、自分自身(主観)の豊かさで、ずいぶん違ったものになるのかもしれない。
この本の中に書かれた「まずまず」という言葉に息苦しさを感じるのは、自分の貧しさに気づくことでもあると思うのだ。


この本のなかで一番ページ数を使っているのは、「三」の、自分が他人の目にどう映っているか(を幸福のよりどころにすること)についての話だ。
「詳しく調べれば、私たちがこれまでに感じたあらゆる気がかりと不安のほぼ半分は、他人の思惑が気になって生じたものだとわかる」
とのことで、たぶん、幸福のよりどころに、他人の目を意識しすぎると、同時に、大きな不幸も背負い込むことになるってことなんだろう。


たとえば、名誉。
名誉は命よりも尊いだろうか。現に生きていることや無病息災にとっては、なんの価値もないのに。
「死後の名声のために安息も富も健康も、はては命をも犠牲にするものまである」
それは名誉というより迷妄だ、と。
「この迷妄は、人を支配したり導いたりする立場にある者にとって、格好の口実になる」
そして、誇り については、
「誇りのなかでもっとも安っぽい誇りは、国民的誇りだ。」
「……誇れるようなものをこの世に何ひとつ持たない憐れな愚か者は、まさに彼が属している国を誇ることを頼みの綱とする」
名誉の話・誇りの話、セットで、警戒したい。