市電が走る町。坂道が多く、振り返れば海が見える。
夏、五〇代後半の翻訳者「由々」は、11歳の「ゆゆ」だった夏の一日を思い出す。
特別の望みを託した「黄の花のワンピース」を着て、ワクワクしながら迎えたその日は、期待しては裏切られる、さんざんな一日になってしまったのだった。
わたしの子ども時代の情けない出来事も甦ってくる。ゆゆの夏の日と重なって。
今ふりかえってみれば、どれもこれもほんとうに些細なことだった。子どもだったと思う。
でもその些細なことを忘れずに覚えているということは……。
苦い日だったのに、少女の夏の一日には、ほの明るい思い出も混ざる。
一人で遠くまで乗っていく朝、市電の窓から見える次々の看板の新鮮なこと。「きむじ」と読んでしまう「生そば」。
おばあさんの箪笥の上に並ぶ、こけしや市松人形、竹細工やひょうたん。和のものに紛れ込んだ、とりわけ「洋モノ」めいたもの。
「しんと静かで気候のよい春夏の夕暮れに、縁側にすわってぼんやりしたり本を読んだり」するのが好きだったこと。
などなど……
些細でとりとめのないあれこれがなんだか懐かしい。
ゆゆが由々になった四十数年後の夏の朝、懐かしい風を感じた。
中途半端に終わったあの一日の続きがふいに始まったようで、妙にわくわくする。
由々のあとをついていきながら、わたしの心も弾んでいるのを感じる。
すっかり消えてしまったはずの11歳の少女はもしかしたら、何処にも行かずにここで続きの話を待っていたのだろうか。あの日のお気に入りのワンピースを着て。
大人になった由々が始める、あの日のゆゆの続きの話は、ちょっと違う。かもしれない。子どものゆゆが未熟だったかどうかではなくて。
高楼方子さんの、珍しく子どもの本ではない小説、と思って手にとったけれど……ほんとに?
大人の胸のうちですっかり大人しくなってしまっている過去の子どもに(とっくにいなくなっちゃったと思って忘れていた子どもに)ほらほら起きておいで、と呼びかけているような物語だった。