『詩画集 プラテーロとわたし』ファン・ラモン・ヒメネス  波多野睦美(訳) 山本容子(絵)

  

詩画集 プラテーロとわたし

詩画集 プラテーロとわたし

 

 

並んだ三つの音符の三音にのせて「プラテーロ」と呼びかける。
三音でプラテーロ。何度も何度も。プラテーロ……


波多野睦美さんの翻訳は、音楽とともに朗読するために作られた。そのため、語順もスペイン語のままなのだ、という。
たとえば、こんな感じ。
「その瞳は 輝く きらめく 黒い水晶 カブトムシ」
一センテンス、一センテンスを大切に味わい進みながら、単語のイメージをだんだんふくらませていくと、全体的な姿が浮かび上がってくる。
詩が、音楽に乗って、揺れて、動いて、踊っているように感じる。
一見、楽しげだけれど、これは静かな踊りだ。
『プラテーロとわたし』には、死から生をふりかえって眺めるような、失われたかけがえのないものを惜しむような静けさがある。
静かだけれど、寂しい踊りではない。懸命な命を慈しむように踊っている……


見開きに詩が一つ。
次の見開きに、絵が一つ。
詩と絵が交互に現れる美しい本。
絵は、山本容子さんのエッチングで、どのページも、淡いオレンジ色だ。
絵の中から、アンダルシアの乾いた風が吹いてくる。
あらわれるロバは、頭が大きくて、柔らかそうな毛におおわれている。おとなしそうな目をしている。これが、山本容子さんのプラテーロだ。
ことに好きな絵がある。『十一月の田園詩』に添えられた絵。
暖炉にくべる松の枝をどっさり背中に背負って歩いてくるプラテーロがいる。その横に、ちょっと違う角度からみたもう一頭のプラテーロ。こちらの積み荷も松だけれど、青々とした枝の間には、小鳥たちが遊んでいるのだ。微かに太陽も見える。プラテーロが背中にのせているのは、暖炉の焚きつけになる前の、生きた松の姿そのままなのだ。
詩句「緑の枝 松の木からまっすぐ生えていたその枝には 太陽と マヒワと 風と 月と カラスがいたのに」に美しく呼応している。


こういう形で、もうひとつの『プラテーロとわたし』にまた出会えたことがうれしい。
わたしの二冊のプラテーロの隣にそっと並べよう。

  

『プラテーロとわたし』 伊藤武好・伊藤百合子=訳(理論社)- ぱせりの本の森

『プラテーロとわたし 』長南実=訳(岩波書店)- ぱせりの本の森