『移動図書館ひまわり号』 前川恒雄

 

移動図書館ひまわり号

移動図書館ひまわり号

  • 作者:前川恒雄
  • 発売日: 2016/07/29
  • メディア: 単行本
 

 ★

お馴染みの童謡を流しながら移動図書館がやってくる。音楽を合図に昼寝から覚めた赤ん坊を背負い、本を借りに行くのが二週間ごとのわたしの楽しみだった。
その時の図書館員さんに、自転車でも行けるところに市立図書館の分館がある事を教えてもらい、出かけた。明るい子ども室の床を子どもは這い、やがて書棚に手を伸ばしてつかまり立ちをした。
私と子どもの懐かしい図書館ことはじめ、である。


この図書館で、わたしは、「あれ」と思う。閲覧室がない……。学生時代、図書館で勉強していたわたしは、どうしてだろうと思ったのだけれど……今、この本を読んだあとなら、その理由がわかる。
図書館って、何のための施設なのか。そのことを曖昧にしておくと図書館が萎み、いつのまにか違うものに取って代わられてしまうことがよくわかった。
子どもと一緒に私が通った図書館は、この本で、前川恒雄さんたちが試行錯誤し、闘い、育ててきた日野市の図書館の似姿のようだ。ここの図書館がここまでに育った経緯を想像する。あたりまえに図書館の恩恵に浴してきた私だけれど、図書館員さんたちのひとかたならぬご尽力に改めて感謝します。


夢中になって読んだ。……こういうとき、小説であれば、何も考えず、ただもう先へ先へとページを繰っていくだけだ。でも、こういう本は、むしろ手を止める。ドキドキするが、その都度、読んだことを頭のなかで整理しなければ、先へ行けないような気がして、何度も何度も立ち止まった。
だけど、今、さらに整理して感想か何か書こう、と思うと、一体どう書いていいのかわからなくなってしまう。取り上げたい言葉は沢山ありすぎて、それを全部書けないならば、何も書かないほうがましなんじゃないか、と思いながら、でも、書くのだ。


日野市の市立図書館の始まりは、一台の移動図書館車だった。
日野市立図書館長(だった)前川さんは書く。
「本当の図書館とは何かを、市民に肌で分かってもらうための唯一の方法が、移動図書館だったのだ。図書館が動き、それによって市民が変わり、その市民がまた図書館を変えてゆく。」
図書館は生きもののようだ、と思う。図書館員によって生まれた赤ん坊のような図書館を、続けて図書館員と市民とが、それぞれの立場から協力し合い育てていく。大きくなった図書館と人とは、ともに、さらに育てあう。
良い図書館のある町は、きっと人も豊かなんじゃないか、と思う。
「いい図書館があるので本を読むようになり、子供も本が好きになりました」とある利用者が言う。そうなると、借りるだけではすまず、買うことになる、と。答えて書店主たちはいう。「図書館のおかげで売り上げがのびた」


たった一台の移動図書館が、二台になり、分館を産み、美しい中央図書館が誕生する。口絵の写真を何度も見直しながら、ああ、この図書館車で育った子は幸せ、この子ども図書館に通う子は幸せ、そして、この中央図書館へ一度行ってみたいものだ、と思う。
図書館の発展は、順調ではなかったけれど。館長としての前川さんは、ときには激しい言葉を使う。それだって怒りをかなり抑えているのだろう。


日野市の図書館が注目をあび、地方から多くの図書館関係者が見学に来るようになったころ……都より、図書館を複合施設にする、との計画が出された。
「つきつめれば、いわゆる総合施設である公民館のほうが図書館よりいいということになる」「資料提供という図書館の本質的な機能を、集会を主とした機能に従属させ、正しい意味での図書館をなくしてしまう考え方」
との言葉を読みながら、こういう危機は、(この本が書かれた)四十年も前からあったのだ、と思った。
公立図書館が、今、「一つの町に複数の図書館が必要か」と問われ、あるいは、きらびやかな複合施設風の(図書館という名前はあるものの)中身のない入れ物に変えられ始めていることを、あちこちで聞く。
それは、もしかしたら、この本のなかで、「みんなをあんまり賢くしてもらうと困るんだよなあ」と本音をもらしたある議員のように「学ぶ者を警戒する小権力者たち」による、図書館発展への妨害であるかもしれない。
今、何が起こっているのか、よくよく見定めなければと思う。わたしたちの持ち物(それは、先人たちが力を尽くしてやっと持たせてくれたもの)を、まがいものにすりかえられてはいないか、と。