『灰色の畑と緑の畑』 ウルズラ・ヴェルフェル

 

灰色の畑と緑の畑 (岩波少年文庫 (565))

灰色の畑と緑の畑 (岩波少年文庫 (565))

 

 

全部で14篇。
短く無駄がないので、ときには寓話のように感じるものがある。
たとえば
『よその子どもたち』は、「むこう岸」の子どもたちの物語。
『灰色の畑と緑の畑』は、ふたりのフワニータの物語。山の村で灰色の畑を作ってやっとなんとか暮らしている家の子と、谷に緑の畑を持ち、大勢の山の人を使って裕福に暮らす家の子の物語。
『そんな国で』は「心に思ったことを必ずしも口に出してはならなかった。見聞きしたことを必ずしも覚えていてはならなかった」という国に住む、12歳の二人のライバルの物語。
『通りを三つ上がる』は、バラックを抜け出して四つも部屋のある本式の住まいに引っ越した一家の物語。


それから、子どもたちの日々の中のひと時の出来事を切り取ったような物語がある。
たとえば、
『ハンネスがいない』では、遠足のおわりに町に戻るバスに乗り込んだ子どもたちは、まだ来ないハンネスを待っているが、そもそもハンネスってどんな子だっただろうか。今朝見ただろうか……
『ふたごの魔女』では、子どもが大好きな(でも子どもをよく知らない)おばあさんたちが、子どもたちを家に招待したけれど……
『マニのサンダル』では、身体は大きいけれど、口のきき方は小さい子どものようなマニが、新しいサンダルをもらった。マニは、ほかの子どもたちにそれを見せたくてしかたがない。


ほとんどの物語は、こういうことがあったのだ、ということが書かれているだけで、解決には至らない。
なぜそういうことになったのか、判るような気がするけれど、だからといって、そうなることを止めることなんてできただろうか。簡単に物語にきまりをつけたなら、それはごまかしになってしまいそうだ。
小さなお話で、どこでもそんなことは起こっているだろう、と思う。そういう物語であったとしても、よくよく考えてみれば、とても根深い問題を抱えていることに気がついてはっとしたりする。
子どもにありがちな、だろうか。それを不発の爆弾みたいにそのまましっかりと抱えて、わたしたちは大人になってはいないだろうか、と思って。
これらの物語に、もしも名前(カテゴリー?)をつけて呼ぶなら、肌の色、富と貧困、戦争などになるのだろうけれど、そういう呼び方をして「ああ……」と言ってしまいたくないような、一人ひとりの子どもたちが、ここにいる。


この物語のまえがきで、作者は
「ほんとうの話はめでたく終わるとは限らない。そういう話は人に多くの問いをかける。答えはめいめいが自分で出さなければならない」と言っている。
むずかしい宿題を与えられたようで、ずんとお腹が重くなるけれど、作者はこうもいう。
「これらの話が示している世界は、必ずしもよいとはいえないが、しかし変えることができる」