『ぼくは挑戦人』 ちゃんへん.

 

ぼくは挑戦人

ぼくは挑戦人

 

 

著者ちゃんへん.さんは、世界的なプロパフォーマーだ。
中学生のころ、ジャグリングと出会い、技を磨き、どんどん上達していった。
中学三年生の時、初めて出場したサンフランシスコのパフォーマンスコンテストでの優勝をきっかけに、プロパフォーマーを目指す。
どこにも確かな道などないし、誰も教えてくれなかった、プロのパフォーマーへの道を、手さぐりし、果敢に挑んでいく姿を、のめり込むように読んでいく。


途中で、著者ちゃんへん.さんのパフォーマンスを見たくてたまらなくなり、巻末のプロフィールのところから「ちゃんへん.YouTubeチャンネル」にアクセスしてみた。
美しさに息を呑んだ。手の先(あるいは宙)で踊る道具と、身体の動きとが一体になり、まるごと一つのアート作品のようで、すっかり夢中になってしまった。


しかし、この本は、天才パフォーマーの半生記というだけではない。
著者は、京都市ウトロに在日コリアン朝鮮人)として生まれた。
著者が在日コリアンであったからプロのパフォーマーになったともいえるし、プロのパフォーマーであるから、差別の問題に深く切り込んで行けたのかもしれない。


アイデンティティー、ルーツ、そして差別。
家族のこと、幸福のこと、パフォーマーにつきつけられる課題、自分の使命。
この本の内容は盛りだくさんで、世界(ことにスラム、難民キャンプ、朝鮮の北と南、世界の西と東)を舞台にしてきた彼だからこその視点、思い巡らしに、時々、本を置いて考えた。
すべてを、書くことはできないので、差別について、ほんの少しだけ。(本当は、すべての問題が深く結びつき、一つだけ抜き出すのは無理があるのだけれど)


小学生時代、著者はひどいいじめにあう。どんどんエスカレートし、大胆になっていく暴力に、小学生がここまでの怪物になれるのか、と驚く。
あからさまな暴力は、やがて発覚する。校長室で、加害者少年は嘯く。相手は朝鮮人だ、と。
自分のしていることがいじめであることを認めても、自分が「差別」をしている、という自覚はないのだ。


この「いじめ」が、後に著者が出会うさまざまな偏見や差別の根っこにあるようだ。


たとえば、ニューヨーク同時多発テロイラク戦争について、東西の人々の捉え方の違いに驚くが、それは、偏った情報を鵜呑みにするところから起こることに気がつく。
小学校時代に著者をいじめた加害者たちは「朝鮮人のことをよく知らず、親の情報を鵜呑みにして僕という存在を否定し、「敵」という考え方に直結したのかも知れなかった」のだ。
言われてみれば、と気がつくことも多々ある。


また、日本のヘイト・デモに参加しようとしていた二人の青年たちとの出会いが印象に残る。
話してみれば、デモの本当の目的もわからず、寂しさのはけ口をネットに求めていただけの青年たち。
この青年たちも、小学生時代の著者をいじめていた小学生に重なる。
あの日、校長室によばれてやってきた著者のおかあさんが校長先生に向けて放った言葉を思い出す。(おかあさんの武勇伝はたくさんあり、かっこいい)
「わしな、なんでこの学校でいじめがなくならへんのか知ってるんやけど、教えたろか? 
それはな、この学校で、子どもたちにいじめよりおもろいもんがないからや!」
それは、今や、学校だけではない、子どもだけではない、のだ。


差別に顔をしかめる資格がわたしにあるのだろうか。
自分の中の(ない、なんて言えない)気づいていない差別が恐ろしい。
そう考えると不安にもなるけれど、それだから、この本は、わたしの肩を叩く。
人の中へ行こうよ、と。
「大切なのは、自分の問題として考える想像力」
この想像力、人に会いたい、その人のことを知りたい、そこから始まって広がっていくのだと感じる。