『老人と海』 アーネスト・ヘミングウェイ

 

老人と海 (新潮文庫)

老人と海 (新潮文庫)

 

 ★

先日読んだ『コピーボーイ』で、主人公は『老人と海』を持って旅に出た。『老人と海』のなかのあの場面、この場面を思い出しながら、旅をしていた。
この本、もう一度ちゃんと読みたいなあ、とおもっていたところだったので、今年の「新潮文庫の100冊」に、『新訳が入っていたのは、ちょうどよい巡り合わせでした。

老いた漁師サンチアゴは、もう八十四日間、一匹もとれない日が続いていた。
5歳のときから舟に乗せて漁を教えた少年マノーリンは、両親の言いつけで、別の船に乗るようになっていた。
それでも老人は、船を出す。八十五日目に賭けて。
はるか沖合で、巨大なカジキマグロが綱の先の鉤にかかる。久しぶりの獲物、思いもしない大物だ。負けるわけにはいかない。老人は、ほかのすべての仕掛けを棄てて、この獲物に賭ける。
魚は弱る兆しも見せず、潮に逆らって泳ぎ続ける。魚と老人の根競べのような戦いが続く。


海の上で一人きりの老人は、大きな声で独り言をつぶやく。それは見たままのものを描写する言葉であったり、頭に浮かぶことをそのまま声に出して考えているだけであったり、通りすがり(?)の鳥やイルカへの呼びかけであったり、海、船、自分自身、それから、闘いあうカジキマグロへの呼びかけであったりする。


「そりゃ海は優しくて、めっぽうきれいだ。でも、同時に、ひどく冷酷になったりもする。それもいきなり変わるのだ。」
老人は海を愛する。だけど、老人にとっての海って本当はなんなのだろう。


読んでいるうちに、眩暈がしそうな大海原の広がりのなかで、自分がとっても小さくなって消えてしまいそうな気がしてくるし、逆に、いつのまにか自分自身が大きく広がっていき、海と同化するような気持ちになる。
老人が呼びかける言葉は、いったい誰に向かっているのか。海、鳥、魚、自分……その境界が消えていく。
海と老人が、そして、読んでいるこちらも、いつのまにか一体になっている。誰が誰と闘っているのかいないのか、今、何処にいるのか、どのくらいの時間が流れているのか、どうでもよくなってくる。
海への敬意、闘いあう相手への敬意は、自分自身への敬意でもあっただろうと思う。


順風に乗っての帰途。この帰途の物語は、こんなに短かったんだっけ、とちょっと驚いている。さらさらと何かが零れおちていくような、この時間が、獲物との闘いの時間よりもずっと長く感じた。それが、この本のなかのこんなにも少ないページ数のなかに詰まっていたのか、と驚いている。


老人は、勝ったのか、負けたのか……
たぶん、勝ち負けを突き抜けたんじゃないか。もっと高いところへ。
老人は、ライオンの夢を見る。
黄昏の浜辺で子猫のように戯れるライオンの夢。
百獣に君臨する王者の、おおらかな休息のよう……そう思いたい、そうあってほしいのだ、何よりもわたし自身が。


「投網、借りてってもいい?」「ああ。かまわんよ」「ぼく、投網借りて、イワシをとってくるよ」
物語の初めに出てきた老人と少年の会話。本当は、老人は投網を売ってしまい、持っていなかった。それなのに、二人は、毎日、そんな芝居を繰り返しているのだという。初めに読んだとき、寂しくて優しい、と感じた会話だったけれど、仕舞いまで読んだ今、海とともに生きた老人の人生への若者の敬意を、より強く感じている。
投網はきっと、最後に少年が欲した嘴と一緒だ。