『方丈記』 鴨長明/蜂飼耳(訳)

 

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

 

 

「ゆく河の流れは絶えずして……」の方丈記、現代語訳の蜂飼耳さんによれば、原文は、原稿用紙にしたら、約二十枚分でしかないのだそうだ。
この本には、
方丈記』現代語訳と原文、
エッセイ『移動の可能性と鴨長明』、
それから付録として『新古今和歌集』所収の鴨長明の和歌十首、
『発心集 巻五、十三「貧男、指図を好む事」』の原文と訳文とが載っている。


方丈記前半には、飢饉、地震などの天災、重なる遷都のことが書かれている。当時の人々の不安や苦しみが、今のわたしたちの暮らしに重なる。
「川の流れは絶えまなく、その水はいつも入れ替わり、もとの水はとどまらない」
もとの水ではないのに、千年前の水も、現在の水も、同じように冷たくて、同じ味がするのだな。
「どんな場に身を置いて、どんなことをして生きれば、しばらくの間だけでも、この身とこの心を安らかにさせておくことができるのだろうか」
との問いかけに対する答えが、後半の住まいの話に繋がるのだろうか。


後半、住まいについての話は、楽しく読んだ。
年齢とともに、住む家が小さくなってきて、今は、都の喧騒から離れ、一人起居するに足るだけのすまい。その暮らしぶりの簡素さが清々しい。
ほんとうは、不遇の一生だったと思う。妻子も持たず、官位にもつけず、一人山里に隠れすむ。
だけど、そこに失意の人のイメージは薄く、年とともに要らぬものをそぎおとして、身軽になっていくような風情だ。
春夏秋冬、移り変わっていく景観。散歩し、和歌や楽器に遊ぶ日々。
このあたり、切れのよい短文が続き、リズミカルで美しい。


この方丈の住まいについて、エッセイ『移動の可能性と鴨長明』で、蜂飼耳さんは、
「……単なる閑居生活の充足という段階では終わらないのではないか」
「……嫌になったらいつでも他所に移れる、そんな可能性を秘めた住まいである……」
といっている。
なるほど、いつでもこの暮らしを畳んで別の場所で続きを始めることができるのだ。
方丈記』にも「やどかりは、小さな貝を好む」とある。
自由だなぁ。ふっと身が軽くなる。


付録の『発心集』の一節に、建物の設計図ばかり書いている男のことが書かれていて、鴨長明に重なる。
「(設計図を描くために)使うものといえば、たったの紙一枚。だが、心を住まわせるには充分だ」
よい暮らしだと思う。


出家はしたものの、達観できなかった鴨長明、それだから『方丈記』は書かれたのだ、という蜂飼耳さんの話もおもしろい。
「葛藤を抱える鴨長明だからこそ、自足について大いに語ってしまうのだろう」
「達観は完成形であり、それゆえに遠く、葛藤こそが身近な姿だからだ」
葛藤する長明でいてくれてよかった。
人も住まいも儚いけれど、「鴨長明は、そんなつもりはないままに言葉による建物を建てたのだ」という蜂飼耳さんの言葉を味わいながら、言葉による方丈の庵をいま、わたしも訪れる。
発心集の、設計図を書く貧男のように、私もここに心を住まわせることもできる。