『消しゴム』 アラン・ロブ=グリエ

 

消しゴム (光文社古典新訳文庫)

消しゴム (光文社古典新訳文庫)

 

 

殺し屋は失敗したのだ。ちょっとしたミスで、弾はそれ、殺すはずだったダニエル・デュポンは腕にかすり傷を受けただけに終わった。
ところが、翌日の新聞各紙は、ゆうべ、デュポンが何者かによって殺害された、と報じる。
この殺人事件を捜査するために、パリから派遣されたのが特別捜査官ヴァラス。
だけど、地元警察には死体がない。死体は捜査の指揮権とともに地元警察から奪われたのだ。
いや、実はデュポンは生きている。殺し屋の目をそらすため、訳あり医師に嘘の死亡診断書を書かせて、安全に匿われている。


ここまでが序章だ。
特別捜査官ヴァラスは、(実は起こっていない)殺人事件の捜査を始めるのだけれど、これがなかなか思うようにいかない。
会うべき人は、すぐそこにいるのに、なかなかそこにたどり着けない。
難しい道があるわけではないのに、まるで迷路のなかにいるような気がする。
読者には事件の真相はわかっている。殺し屋の名前さえも知っている。だけど、読んでいるうちに知っていることがあやふやになってくるのだ。
だって……知っているのは、名前だけだ。その名前は唯一無二の名前なのだろうか?


繰り返し出てくる、ヴァラスの「消しゴム」へのこだわり。
彼は、知人が持っていた消しゴムを気に入って、同じものをずっと探している。その形や質感を具体的に語る言葉を読みながら、わたしは「あれ?」と思う。それと似たような描写、わたし、見たような気がするよ。どこかの……机の上じゃない? あわててページを遡って探す。


繰り返し、といえば、一発分の銃弾がない拳銃も、別の場所、別の誰かの所有物として、何度も、わたし見た。その都度、緊張する。なんなの、一発足りないって。


「よく似た男」も、繰り返し。この言葉、別の場所で、別の時間で何度もみた。それはだれに似ているというのだろうか。
「あれはあなたでした」「あれはあなたではありませんでした」どっちなんだろう。
いつも通りかかるあの人と、今ここにいるこの人が、(たいして注意をはらっていなかったら)間違いなく同一人物かどうか、はっきり区別がつく、という自信はない。
あのとき、あそこにいたのは。そのとき、そこにいたのは。あの場面、この場面……


あれこれの場面が、何度も何度も繰り返される。だれかの回想だったり、だれかの想像が混ざったりの、少しずつバージョンの違うその場所その時間が、何通りも。
同じ線を何度もなぞった鉛筆画のようなイメージだ。
錯綜する時間のなかを漂い、ずいぶん長い時間(日数)が過ぎているような気がするのだけれど、実は、これ、たった24時間の出来事なのだ。
昨日の午後七時三十分に始まって今日の七時三十分に終わる物語。
その間の24時間のことを解説して、作者自身は、このように書いているそうだ。
「この小説が語るのは、弾丸が三、四メートルの距離を通過するのに必要とした時間――すなわち〈余分の〉ニ四時間なのだ」
この謎のような言葉の意味が、読み終えたあとにはするするとわかるし、まるで、大きな手の上で転がされて、またスタート地点に戻されたような気持ちになって愕然とするのだ。


タイトルの消しゴム、特別捜査官ヴァラスがさがしていた消しゴム、あれはなんだったのか。
鉛筆画の何度もなぞられた線の、そのいらない線を消していく作業をするために読者に提供されたものであったのだろうか。
あるいは、「〈余分の〉二四時間」を消すための?