『詐欺師フェーリクス・クルルの告白(上下)』 トーマス・マン

 

 

 

フェーリクス・クルル、コソ泥で詐欺師で、口から先に生まれかと思うほどに冗舌で、自信満々のうぬぼれや。
彼の旅に同行するのはなんて楽しかったことか。最後には、旅の途中で置いてきぼりを喰わされたとしてもね。(未完の物語なのです)


詐欺師、コソ泥、ではあるが、(他人から見たらあっけにとられる)独自の倫理観をもっている。
自分自身にとってのよいことは、誰がなんと言おうと、すべての規範の上をいくのだ。
会う人々に、忘れがたい印象を残すが、少なくても相手を破滅させるような悪さを働いてはいなかった。


出会った人から仕込んだ耳学問(文学、芸術、博物学)は、そのまま知識としてインプットされて、機会さえあれば自分の言葉としてアウトプットしていく、図々しい男。
だけど、それでいながら、アンバランスなくらいに鋭い考察を口にしたりもする。ただの器用貧乏とは思えないくらいに。


テニスなんか一度も経験したことのないフェーリクスが、経験者として堂々とテニスコートに立つ場面がある。
「これ見よがしの大はしゃぎを演じ、ゲームを茶化して真剣にやっていないと見せかけ」ながら、「その間に正真正銘の天才の技を発揮」して、周囲からブラボーの喝采を受ける。
そのため、本当はこの人、すごくできる人なんじゃないか、と周りに思わせてしまう。
いかにもフェーリクスらしいエピソードだ。


姉弟、母子、味の違う美しさが二つ調和した形になっている対の美しさに惹かれたり、一人旅の貴女との官能的な情事など、それから、自画自賛するまでもなく誰が見てもフェーリクスが美しい青年であったことなど、少し妖しげな美意識などがちらほらして、どきどきする。


フェーリクスは、詐欺師、というよりも、いまの自分とは別の誰か(別の身分)に扮装することの魅力にとりつかれている。
徴兵検査での大芝居、巧みな筋立てと演技力とに舌を巻いた。
パリのホテルマンとして働きながら、休日には押しも押されもせぬ紳士としてパリを闊歩する彼。そのどちらの姿も、彼は楽しんでいたし、どちらの姿も一種のゲームのようだった。
さる貴族の御曹司と身分を交換して、若き侯爵として旅に出る話には、「王子と乞食」を思い出してわくわくした。


ゲームのように、別のだれかになりきって、踊るように人生を滑っていく彼。
その身軽さ、口八兆、大胆さに、はらはらしたり、あきれたり、でも、ちょっと憎めないやつ、と思ってしまうあたり、ほらほら、いつのまにか、彼の話術に嵌っている。
だけど、この身軽さは、ちょっと危うい。本当の彼はいったいどこにいるのだろう。
「つまり、どちらの場合も、私は偽装していたのだ。そして、二つの現れ方の、仮面を被らない現実、私自身であるというあり方は、特定することができなかった。なぜなら、事実としてそれは存在しなかったからである」


物語のなかで、ちらちら匂わせた、この物語のさらに先にあるはずの彼の旅路のあれこれが気になっている。それらは書かれなかった。読みたかったな。叶わないのが残念だ。