『土の中の子供』 中村文則

 

土の中の子供 (新潮文庫)

土の中の子供 (新潮文庫)

 

『土の中の子供』『蜘蛛の声』の二作が収録されている。


*『土の中の子供』
よせばいいのに、抗いがたい力で、死に近いところまでふらふらと近づいて行ってしまう。
鉄パイプを握ったバイクの男たち。踊り場の手すりの向こう。鳴り続ける踏切の音。
死に魅せられているわけではない。恐怖も感じている。だけど、身体に染み付いた恐怖を、まるで本能のように受け入れている。
死にたくなんかないのだ。本当は生きたくてじたばたしているのに、いざとなると、ふいに手も足も出せなくなってしまう。


過去、彼は里親に酷い虐待を受けた。抵抗をやめてされるがままに任せることが(虐待を受け入れることが)彼自身を壊さずにおくためのある種の自衛だったのかもしれない。
それは過去の話だろうか……
今も、彼は打たれ続けているのではないか。止むことのない虐待が、彼の内側で、加害者も今はいないというのに、やはり続いているのではないか。


十階の階段の踊り場から、彼は中身が入ったままのコーヒーの缶を落とす。
テーブルの上に止まった蚊に、ガラスのコップをかぶせる。
缶も蚊も彼自身だ。
すでに二十代後半の彼が、いつまでも落ちる缶であり、コップの中の蚊であり続けるしかないことが、読んでいて苦しかった。
まるで溺れて呼吸ができないような文章の運びに、いったいどうしたら楽になるのだろう、と考えていた。


暗い話なのだ。だけど、暗いだけの話ではない。
虐待を受けた子どもの話だけれど、それだけではない。
溺れて呼吸ができないような今を、なんとかやり過ごしている人たちは、見せかけの状況が違うだけで、きっといるのではないか。
希望、なんて安易に言ってはいけないけれど、「僕は、土の中から生まれたんですよ」という言葉が心に残っている。


*『蜘蛛の声』
橋の下に隠れている男の話だ。
なぜここに隠れることになったのか、読んでいるわたしはちゃんとわかっているはずなのに、それが、あやふやになってくる。ぐちゃぐちゃになってくる。激しく揺さぶられる。
『土の中の子供』のなかにでてきたセリフが蘇ってくる。
「その先に、そいつがどうなったのか。何ていうのかな、人間の最低のラインってどこなのかっていうかさ。どこまで行けるものなのかなって」


二つの作品とも、荒々しいほどの力強さ、泥臭さだった。
のほほんと歩いているこちらの腕をつかんで、ぐいぐいひっぱっていく。そうでもしなければ、こんな場所まで来なかっただろ、と言われているようなその場所で、読み終えて、ほうっと息をついている。