『コロナの時代の僕ら』 パオロ・ジョルダーノ

 

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

二月。三月。著者は、新型コロナ感染拡大期のイタリアにいる。
毎日、感染者数がずんずん増えていく。
日常は寸断される。
市民は外出が制限される。人々は不安に駆られる。怒りっぽくなる。市中にはさまざまな憶測がとびかう。
市民と行政と専門家、三者の間には、「関係が機能不全」になるほどの不信感が広がっている。


わたしは、イタリアの惨状を横目で見ながら、日本は、私たちは、どうなるのだろう、と毎日が不安で不安でどうしようもなかった三月を思い出す。
再び、この国に感染症が広がっている現在。日々、跳ねるように膨らんでいく感染者数への不安、どこ吹く風の政府へのイライラ。三月が戻ってきている。


最初、この本を手にとったとき、今のわたしに、生々しいエッセイ(と思った)が読めるかな、と思った。
でも読めた。
読めた、というより、思っていたのとは全く違っていた。まず、自分に与えられた静けさへの気づきに感謝している。
書かれている事実は、誇張がなく、湿り気がなく、穏やかで客観的だ。
それだから、読んでいる私も、不安、恐怖、きりきりした感情の沼から、掬い上げられたような気持ちになるのかもしれない。


「この空白の時間を使って文章を書くことにした」という著者は、(著者自身、大きな不安のなかにあったはずだが)一歩退いたところから、あるいは、少し高いところから俯瞰するように、自分自身を含めたこの世界を見つめている。ときどき、ユーモアを交えて。
自分のみのまわりから、外へ、外へ。独りから小さな共同体へ、それから人類全体、地球上のあらゆる生物まで。ウイルスは、平等で差別をしないから。
著者は物理学者であり、作家だ。ものを書く人の眼差しなのだと思う。


著者は、「コロナウイルスの『過ぎたあと』、そのうち復興が始まるだろう」と言う。
「だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないかを」
いつか元どおりになるだろうか、なってほしい、と思っていたけれど、今、考えるべきは、そこではなくて、「何に元どおりになってほしくないか」なのだ。


放っておけば忘れてしまいそうな数々の出来事を、記録していく。
次々に並ぶ「僕は忘れたくない」で始まるセンテンス。
忘れたくないものは、一見些細で個人的に忘れやすいものだったり、覚えていられると困る誰かに故意に忘れさせられそうなことだったりする。
単にわたしたちが、あまりに忘れっぽいからでもある。
著者が、「文章を書くことにした」のは、「予兆を見守り、今回のすべてを考えるための理想的な方法を見つけるため」だった。
読むこと、書くことの意味を思うと、力が湧いてくる。
「日々を数え、知恵の力を得よう。この大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることを許してはいけない」