『小公子』 フランシス・ホジソン・バーネット

 

 

『小公子』は、こどものころ、はじめて買ってもらった(絵本ではない)字の本だった。
あけはらった畳の部屋に、ぺたんとすわって、夢中で読んでいた夏を思い出す。
字の本、といっても、文章のかなりの部分を端折った、小さい子向けの、当時よくあった名作の抄訳のシリーズの一冊だった。
大きな文字、ふんだんな挿絵の本は、あの頃、何度も読み返した宝物だった。


そして、今、手に取ったこの本は、昭和三十五年に小学館から刊行された川端康成訳(野上彰との共訳)『少年少女世界名作文学全集 第九巻 小公子』を底本としているとのこと。
昔、私が読んだ『小公子』の何倍もの文字数で、「もっと長い小公子はどこかにないものか」としきりに願っていたあのころの自分に見せてやったら、どんなに喜んだことだろう、と思う。
長い『小公子』を読んでいると、子どものころの『小公子』がどんどん蘇ってくる。そうそう、この場面のあとに、確かあのセリフが……「あ、やっぱりあった!」という具合に。あちこち、背景的な説明の文章が長々と入ったりもするけれど、子どものときに読んだあの大きな字の本と、今読んでいる本の文章が、ほとんど同じもののように感じて、びっくりしている。
あの抄訳本は、なんて上手な端折り方をしていたのだろう、原作の味わいをほとんど損なっていなかったじゃないか、と思って。


その反面、少しがっかりもしている……。長い物語を読んだのに、大幅に端折った小さい子ども向きの文章を読んだときの味わいに、さほどの違いが感じられなかったなんて。
昨年、同じバーネットの『小公女』(高楼方子による全訳)を読んだとき、子どもの時に読んだ『小公女』とあまりに印象が違うのでびっくりしたものだった。セーラ・クルーの複雑な性格に翻弄されて、彼女のことが大好きになってしまった。
それに比べての小公子フォントルロイの気だてのよさよ。心映えの美しさよ。
良い子すぎて逆に薄く感じるなど、『小公子』への批判は、あちこちで読んでいたので、そういうものなのだろう、とそこは覚悟しながら読み始めた。それでも、もうちょっと何かあるんじゃないか、別の所で何か、と期待していたのだけれど、正直、少し物足りなさを感じてしまった。


『小公子』に初めてであった子どものとき、私はセドリックと大体同い年だったから、彼の幸福をひたすらに願いながら読んでいた。
けれども、今のわたしは、ドリンコ―ト伯爵に近いのだ、と感じてくらくらした。彼が孫にメロメロになってしまう気もちもとてもよくわかる。
これまでの生涯、だれも(自分の子どもさえも)愛したことがなかった孤独な老人の頑なな心が、この少年との出会いにより、徐々にほどけていく細やかな描写が好きだ。老人の内面が変化するにつれて、身体も健康になっていく。ページを追うごとに若返っていくような、老人の変化に目を見張る。
美しい少年が、美しいままに幸福になり、周囲も幸福にしていく。おとぎ話かもしれないけれど(おとぎ話だから)楽しい。


時代を感じる、川端康成による「この物語を読む前に」もおもしろかった。昭和35年である。
アメリカのバーネットというやさしいおば様が、いまから、八十年ほど前に、雑誌に続き読み物として書いたものです」
「この物語は、ただおもしろいというだけではありません。美しく、あたたかい人間の心が、あのよいかおりのするばらの花のように、この物語を包んでいるのです」

 

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