『もうひとつの曲がり角』 岩瀬成子

 

もうひとつの曲がり角

もうひとつの曲がり角

 

 

小学五年生に進級する時期に合わせて、萌は、父母、兄と一緒にこの町に引っ越してきたのだった。
通い始めたばかりの英会話教室が急におやすみになったあるとき、目にとまったのが、まだ通ったことのない脇道。
行ってみようか。
萌は、その道の奥の庭で、自作のお話を朗読して聞かせるオワリさんという老婦人に出会う。
魔法のような本当のような不思議なお話に惹かれ、そのお話を朗読するオワリさん自身にも惹かれ、萌は、また会いに出かける。
でも、同じ脇道を入ったはずなのに、そこは見たことのない横丁だった。
そこは、なんだかちょっと、ちがうのだ。町の人が着ている服。お店の佇まい、いろいろと。そしてふりかえれば、来た道は靄の中……
なぜ、萌は(たぶん萌だけが、しかも何度も)ここにきてしまうのだろう。


物語のなかで不思議は起こるが、それを言うなら、現実にひとの胸のうちで起こっている出来事(葛藤)もまた、おなじくらい、不思議なことに思える。
登場人物、萌を中心にして、兄も父母も、その思いや行動があまりにリアルで、あまりに私には身近だから、そのことを改めて不思議と感じるのかもしれない。


岩瀬成子さんの物語のなかの子どもの思いは、はっとするほど鮮やかで、遥か昔に忘れてきた様々なことを思い出させる。
「「赤」「赤」「赤」。英語でいうたびに、自分のなかに日本語でたまっているいろんな言葉が役に立たないものになっていく気がする」
「家族はたった四人しかいないのに、わたしたちの考えていることはみんなばらばらなんだなと思った」
「心って、いつ大人になるの?(中略)いまの自分が消えて、別の心を持った人になるのはいやだな」


子どもの不満(というより、父母の主義に反してまでの主張)に対して、父と母が説得にかかる。
子どもは今現在やりたいこと、やりたくないことを、具体的に話す。
だけど、親が話して聞かせるのは、(今現在ではなく)未来であり、しかも、漠然として抽象的な言葉だ。
会話は噛み合わず、到底話し合いになっていないのに、親はそれに気がつけないのだ。
「でも、わたし、自分がしたいかどうかもわからないことをがまんしてつづけたくないの」
「ママがきっぱり言い切った言葉がわたしのどこかを切りつけているように感じた」


オワリさんの言葉が心に残る。
「子どものときの出来事じゃなくて、子どものときに感じていた気もち。そういう気もちって、どっかに消えてしまうと、それっきりになってしまいそうなものだけれど、そういう気もちがね、ふっとよみがえってくるの」


たぶん、わたしも、脇道(この本は脇道の入口)に曲がって、出会ったのだと思う。
子どもの時に感じていた気もちが、曲がり角の先にある。