『友だち』 シーグリッド・ヌーネス

 

友だち (新潮クレスト・ブックス)

友だち (新潮クレスト・ブックス)

 

 

「わたし」には、大切な男友だちがいた。
「わたし」は、彼の恋人にも妻にもならなかったから、より深く、より長く、変わらぬ友情をはぐくんでこられたのだろう。
その男友だちが自殺する。
「わたし」は、彼の死後、彼の犬、(もてあますくらいの)超大型犬グレートデンのアポロを、ひきとる。
同じ人を偲ぶ同志が、埋められない喪失感を共有し、並んで暮らしているような印象だ。
「守りあい、境界を接し、挨拶を交わしあうふたつの孤独」との言葉が、印象的だ。二つの孤独。


「わたし」は、「あなた」と、亡き彼に呼びかける。
この物語は長い「あなた」への手紙だろうか。
日々のこと、本を読むこと・書くこと(「わたし」は作家)、犬と暮らすこと、大学での講義のための覚え書き(「わたし」はライティングの講師でもある)、学生たちのこと、「あなた」の妻たちのこと……とりとめなく、次々に話題は移ろっていく。
そして、いつでも、そばには犬がいる。「あなた」の犬が。


ことに本(読むこと書くこと)についての話題は、いろいろと興味深かった。

再読を考えるのは、それが大切な本だった場合には特に、大きなリスクを冒すことになる。再読には耐えられない可能性があるし、理由はともかく、初めのときほど愛せないかもしれないからだ。(中略)そうなると、手ひどく落胆するので、今では、むかしのお気に入りの本をひらくときは警戒せずにはいられない

ああ、とてもよくわかる。わたしは、向こう二十年は、ヘッセを封印しておこうかと思っていたところだ。中学のころには何度も読んでこのうえなく大切だった本が(そのときの気持ちの高ぶりはとってもよく覚えているのに)すごく久しぶりに読んだとき、もうそうではなくなっていたあのときの気持ちを思い出して。

 

……本が一冊売れるたびに喜んでもいいはずなのに、ほかの数百万冊のかわりにあなたの本を選んでくれた読者に感謝してもいいはずなのに、すべてを誤解する読者をうれしく思うのはむずかしく、正直に言ってしまえば、そういう読者にはむしろ自分の本を無視して、なにかほかのものを読んでもらいたいと思わずにはいられないのである

これはもう……顔が赤らむ思いだ。ただ恥ずかしくて申し訳ないと思う。一読者として。そんな風に見えないだろうけれど、読者は「読めてないな」と、自分で薄々気がついてる時もあるのだ、と密かに思っている。もちろんそうじゃないときのほうが多いだろうけど。そして、ある時、突然「あ、あれはそういうことだったんだ」と、なにかがぱあっと開けるように気がつくことがある。その素晴らしい時を含めて、「あなた」の本は、読者の私には、かえがえのない宝物になることもあるのだ。(実際、過去に書いた感想を時々こっそり書き直したり)


物語というよりはエッセイみたい、と思いながら、読んでいた。このままどこまでも続いて行くか……と思いながら読んでいた。
そうしたら、終り近くに挟み込まれたあれだ。
あれは、一体何なのだろう。あれとこれとどちらが現実なのだろう。あるいは、どちらでもないのだろうか。
……そうか。これまで読んできた「とりとめない」は、すべて、ここへくるまでの伏線だったのか。
伏線? なんのための?
これまで丁寧に重ねてきた美しい思いの襞のようなものをぐちゃぐちゃにかき混ぜるための。一つの秩序を混沌・混乱に替えてしまうための。ではないか。


なんだか、ちょっと、滑稽ではないか?
ストレートに高まっていくはずの思いを乱され、ブレーキをかけられたことで、これまで感じていたのとは少し違う景色がにじみ出てくる。
目の前に現れる次々の光景、深く心に残るはずの光景を、安心して正面から見られなくなる。
「友だち」とはなんだろう。「あなた」なのか、「おまえ」なのか、(もう一人の)「わたし」なのか。もしや、「書くこと」だろうか、と考えている。