『ほろびた国の旅』三木卓

 

ほろびた国の旅 (1973年)

ほろびた国の旅 (1973年)

 

 

1954年、高校を卒業したばかりの三木卓青年は、幼馴染の山形さんに再会するが、もみ合いになり、そのまま、どこかへ転げ落ちていく。
気がつけば、そこは卓が幼い頃に暮らした満州の大連だった。時代は1938年の夏。十数年経て、戻ってきた懐かしい故郷だった。
育った家。庭。遊んだ場所。植えた花や探した虫。
そして、子どもの姿のままの友達ちに出会い、子どもの自分自身もみつける。


卓は、「五族共和の夕べ」(おまつり?)に、集まった子どもたち(五族=和・韓・満・蒙・漢)といっしょに、満鉄あじあ号に乗って、満州を旅する。
けれども、ここの子どもたち、本当にのびのびと楽しんでいるのは日本人の子どもたちだけなのだということに、卓は気づく。


侮蔑、差別。自分はもうちょっとマシだったような気がしていたこども時代だけれど、ほんとうはそうではなかった。
「ぼくは、こどものころ、じぶんが満州人もなにも、区別しないで仲よくすることを考えていたつもりでした」
「ぼくは、やっぱり心のまずしい子どもでした」
「ぼくは、どうして日本人が朝鮮人をバカにすることができるのか、その理由を知らないんですよ。だけど、朝鮮人満州人をばかにする、ということだけは、すぐにぼくたちこどもは覚えたんです」


「おとなが悪かったら、こどもも悪くなる。悪い日本人のこどもは悪い」と、これは、あじあ号で出会った中学生の言葉。
こんな場面もある。
少年航空兵になりたい、大東亜共栄圏のために一身をささげるつもり、という少年に、卓は、お医者さんや研究者になって伝染病をを根絶するために、あるいは食糧増産の研究をする未来だってあるのだ、と話して聞かせる。命を大切にするようにと。でも、その言葉は伝わらない。
思い起こせば、自分の子どもの頃の夢は、戦争にいって戦うことだった。
(戦争や時の政府に反感を抱きながら)黙り込むしかなかった卓の父が、ただ子どもに、医者や天文学者を目指すようにしむけてきたことを、卓は後で知る。父の思いは子には伝わらなかったのだ。
「大人が悪い」という事は激流みたいなものだ。無垢な子どもは簡単に飲み込まれていく。善意の大人は、その激流に細い竿を差そうとしているようなものかもしれない。


過ぎた時代の過ちはさっさと忘れて、涼しい顔で生きていける、ずるい大人はたくさんいる。
だけど、その時代に、与えられた情報だけがすべての子どもだったなら。
故意にゆがめられた世界の中で、残酷なくらいに、のびのびとふるまっていたなら……
そうした過去の自分と、分別つく大人になってから正面から向き合うことになったら、どうだろう。
「ぼくは思い出の財産をみんな失ってしまったこじきになってしまいました」
「ぼくの美しい思い出をつくるために、どれだけの人びとがその犠牲になっていたか、ということを知ってしまったからです」


今、自分を振り返って、子どものそばにいる大人のひとりとして、わたしの責任の重さを思って怖ろしくなる。
現在の子どもたちが大人になった日に、卓のような後悔をさせたくはない。どうすればいいのだろう……


この、特急あじあ号の旅はいったい何なのだろう。
この世界は、山形さんの夢だったのではないか、と思う。
卓ともみ合いながら、ともに、この満州に転げ落ちた幼馴染みの山形さんは、卓の思い出のなかでは、少し頭が弱いけれど、優しいおにいさんだった。
けれども、今、ともに旅する山形さんは、高圧的で、平然と差別をする人なのだ。
山形さんは変わっていない。変わったのは卓。懐かしい子ども時代の美しい思い出が嘘っぱちだったことに気がついてしまった卓。
山形さんは、たぶん、日本に帰ってから、そして成長してから、ずいぶん悔しい思いをしてきたのではないか。「少し頭が弱い」ことで、差別されたり、いいようにあしらわれてきたのではないか。
その山形さんにとって、特権階級的な日本人の子どもであった満州時代は、醒めたくない夢のような時代だったのではないか。
山形さんは、どこにいってしまったのだろう。


卓は、あじあ号のなかで、やがて、父に会う。
この日の三年後に亡くなってしまった父に。
もし生きていたなら、話してほしかったこと、聞いてほしかったことがある。
それは、父に対して、というよりも、大人の入口に立った彼の、自分自身への問いかけのようでもある。