『たずねびと』朽木祥

 

 

小学五年生の国語の教科書から、『たずねびと』(朽木祥)を読む。

 

駅の構内に貼られた不思議なポスターが、綾の目に飛びこんでくる。
「さがしています」という大きな文字の下に、たくさんの名前が何段にも書かれている。
それは、「原爆供養塔納骨者名簿」で、原爆の犠牲になった人たち、名前だけはわかっているものの、遺族も心当たりの人もまだみつかっていない人たちの名前だった。
その中ほどに、綾は自分と同じ名前(楠木アヤ)をみつける。年齢まで同じ11歳。綾は、このアヤちゃんのことが気になって仕方がない。どうしてだれも、この子のことを覚えていないのかな。どうして何十年もだれもさがしにこないのかな。
アヤは、お兄ちゃんと二人で隣県の広島へ、楠木アヤちゃんをさがしにいく。


慰霊碑、平和記念資料館、追悼平和祈念館、原爆供養塔。綾はおにいちゃんと75年前の広島を歩く。綾なりの言葉で、思いで、起こったことを、追体験する、感じる。
そして、アヤちゃんはみつかったのだろうか。


「消えてしまった町、名前でしかない人々、名前でさえない人々、数でしかない人々、数でさえない人々」と作者は書く。
こうした人々のなかのひとりのことを知りたい、会いたい、と思うこと、願うこと。
その気持ちを忘れないでいることが、誰も覚えている人がいなかった(その人たちも亡くなってしまったか)人を見つけだし、新たに覚え直すことのように思う。
作者、朽木祥さんが、広島の物語を書き続けることもまた、亡くなった人ひとりひとりに(かけがえのないひとりひとりとして)新しい知人や身内を見つけ出そうとしているようにも思える。
広島で、その年の終わりまでに亡くなった人は、14万人、という。


最後のほうで、綾は、お兄ちゃんと一緒に、橋のらんかんにもたれて、夕日を受けて赤く光る川の水を見ている。
綾がこの橋を渡ったのは、この日、二度目なのだ。
最初にこの橋を渡った時、綾には「きれいな川はきれいな川でしかなかった」。
きっと、この橋は、朽木祥さんの短編集『八月の光・あとかた』『八月の光 失われた声に耳をすませて』に収められた『三つめの橋』に出てきたあの橋だろう、と思う。
『三つめの橋』で、ある人が言った「きれいじゃなあ」を思い出している。
『たずねびと』の「きれいな川」は、『三つめの橋』の「きれいじゃなあ」に重なるのだ。
実際、きれいなのだと思う。
だけど、この「きれい」という言葉は、あの日の広島の悪夢のような姿に、何の繋がりもない、残酷な無邪気さを孕んだ言葉なのだ。
それでも、綾が、『三つめの橋』のあの人と違うのは、綾には、二度めがあるからだ。「きれいな橋」を、その日、二度めに渡った時、川は、きれいなだけではないものに変わる。
橋も川も(ここで亡くなった人たちも)、今、新たな身内を見付けたのだと思う。