『戦争と児童文学11 忘却と無関心の黙示録 『片手の郵便配達人』~壮絶な最期が語るもの』繁内理恵

 

みすず 2020年 04 月号 [雑誌]

みすず 2020年 04 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/04/02
  • メディア: 雑誌
 

 

連載『戦争と児童文学』第11回 「忘却と無関心の黙示録 『片手の郵便配達人』~壮絶な最期が物語るもの」(繁内理恵)を読む。


この連載も、今回で三年めに入ったのですね。
 今回とりあげられたのは、作『片手の郵便配達人』。
1944年、戦争末期のドイツの山奥の村に住む17歳の郵便配達人ヨハンの物語。彼は、レニングラード近郊の戦闘で左手を失ったため軍務を解かれて帰郷していたのだったが……


この物語のなかに隠されたたくさんの符丁を、新約聖書の「ヨハネの黙示録」と比べる(当てはめていく)くだり、興味深かった。たとえば、七という数。登場人物たちの名前。
「黙示録としての予言が、神ではなく子どもからもたらされる」こと、なぜ「子ども」なのか、ということなど、印象的だった。


「……七つの村から村へ毎日二〇キロ以上、輪を描いて歩くヨハンの目を通して描かれるのは、「戦時中の普通の人々」という漠然とした存在ではなく、くっきりと名前を持つ「人間」だ」
との言葉通り、たくさんの人たちが、いろいろな姿で、この物語には登場する。主人公ヨハンは、郵便配達人なので、これらの人びとの間を歩いていくのだ。ヨハンと人とのやりとりによって、「名前をもつ「人間」」たちの存在感は大きなものになってくる。
主人公ヨハンが持ち続けた「良心と思いやり」のせいでもある。
彼の気だてには、物語を読んでいるあいだ、幾度となくほっとさせられたが、しかし、彼が片腕を失った戦闘がどんなものであったか、当時のドイツ青年たちが、どんな教育を受けていたのか、(たとえ、良心と思いやりのある普通の人であっても、兵士であるということは。戦争する国の民であるということは。)繁内理恵さんは、様々な参考文献をあげながら、書く。容赦なく書く。
「良心と思いやり」の青年ヨハンもそういうドイツの青年たちの一人であったのだ。
(作者自身が元は熱烈な軍国少女だったとを『そこに僕らも居合わせた』のあとがきでふりかえっていることにも、触れて。)


この物語のなかに見つけられるのは、わたしたちの似姿ばかりだという。だから、「この物語の中を歩くのは、今の私達の心の中を歩くことと同じ」だという。
確かに、物語のなかには本当にいろいろな人が出てくるけれど、存在がリアルだと感じるのは、やはり、彼ら一人一人、確かに、いまの自分の一部だ、と思えるからかもしれない。
実際目を背けたくなるような姿も、私自身のなかにあるに違いないが、主人公が終始失わずにいたよいものも、きっとある。
けれども、そうした自分を皮肉にも亡ぼすのが、自分のなかで揺れているたくさんの自分自身のなかのひとりであるかもしれない。


物語の衝撃的なラストについては、ずっとどのようにとらえていいかわからないでいた。
賛否両論あるそうで、繁内理恵さんは、このようにいう。
「パウゼヴァングの狙いはそこなのではないか」と。
このラストの残響から、聞きとらなければならないものがあると。
「パウゼヴァングの物語は自分の内にある、蓋をしておきたいものをこじあける。しかしその厳しさはパウゼヴァングの、今の、そして未来の子どもたちへの限りない愛情だ」
あまりに救いがない、と思われる物語を透かして、かすかに明るいものがあるのを、繁内さんの言葉から、発見する。
そうだ、予言の任をになったのは、これから大人になるべき子どもなのだよね。