『プラヴィエクとそのほかの時代』 オルガ・トカルチュク

 

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

 

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プラヴィエクは、ポーランドの国境に近い、ごく小さな村だ。
物語は、製粉所を営むニェビェスキ家の三代の人々を中心に、この土地に住む人々の「時」の切れ切れの断章を、パッチワークのように繋いでいる。


多くの魅力的な人物が出てきた(たとえば森に住んだクウェスタ水頭症に生まれたイズィドルのこと)、それから、思わず息を呑むような事件(第二次大戦のなかのプラヴィエクの姿とか)、人とはいえないようなもの(ゲームのなかの神、水霊になったワタリガラス、獣になった悪人)や、気になるモノ(世界をまわすかのようなミシャのコーヒーミル)も出てきた。それから茸! 森のたくさんの茸と地中に伸びていく菌糸。


この物語は、一種の神話なのではないか、と思う。
「プラヴィエクは宇宙の中心にある」という言葉から物語は始まるのだ。
辺境のようなこの小さな村が、宇宙の中心になるのは、静かなこの土地が、土地なりの考えを考えながら時を過ごしているように感じられる、特別さがあるからだ。
ものすごく大雑把に言ってしまえば、ありふれた生活が点在するありふれた田舎ではないだろうか。
そうでありながら、稀有と思うのは、行き場のない人や人ではないものがやってきたとき、受け入れ潜ませる(そっとしておいてやる)ことのできる空間をもっていること。地面の上にも、人の心の中にも。
蔑まれたり、疎ましがられたりすることもあるけれど、それなりに居場所を得て、追い出されることはない。
物語の中で一人の少女が、プラヴィエクを鍋(自分たちは鍋の底にいる)にたとえていたことを思い出す。


プラヴィエクを流れる二つの川は、白い川と黒い川と呼ばれるが、二つの川は、やがて合わさってただの川になる。
第二次世界大戦のときに、最初にやってきたのはドイツの軍人たち、あとからやってきたのはロシアの軍人たちだ。でも、双眼鏡で、のぞいたら、二者は、すっかり同じにみえて、まったく区別がつかなかったという。
正しく見ているつもりの形が、見方によってはまったく異なったものになる、ということが、物語の中で時々起こる。
真逆と思っていたものが、重なりあって同じものになる、ということも、物語の中でよく起こる。
たとえば、真逆の方向にあると思う、ハジマリとオワリという二点が、円周の上では、同じ場所に合わさっていることを思い浮かべている。


円の内側は鍋だ。
「ここからはぜったい出られない」「まるで鍋の中にいるみたい」
けれども、出られないはずの鍋から、出ていくものもいる。出なくてもいい、と思ったものもいる。二つの思いは、時間をかけて一つに合わさっていく。


以前読んだトカルチュクの作品、『昼の家、夜の家』は、留まる物語だった。『逃亡派』は移動し続ける物語だった。
そして、『プラヴィエク…』では、留まることと、移動し続ける(出ていく)ことが、重なっている。
白い川と黒い川が合わさって川になったように。
新しい神話が生まれて、歌いながら流れていく。