『カッコーの歌』 フランシス・ハーディング

 

カッコーの歌

カッコーの歌

 

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意識を取り戻したとき、耳元で「あと七日」という声を聞いた。
少しずつ記憶が戻ってくる。「わたし」の名前はトリス。覗き込んでいるのはおかあさんだ。
……でも、意識を失う直前、グリークに落ちたときのことは思いだせない。
トリスの記憶は、徐々にはっきりしてくるが、それを読む私は、微妙な違和感を感じている。彼女、まるで、心の内で、教科書の知識をおさらいするみたいに、家族のことや身の回りのことを確認しているようではないか。
きわめつけは、妹のペンのたたきつけるような言葉。「そいつは偽物だよ!」
一番戸惑っているのはトリス自身だ。わたしはトリスだ。そうでしかない。だけど、わたしはだれなのだろう……


トリスと呼ばれたこの子は、自分が何ものなのか知りたい。
物語はファンタジーで、「あと七日、あと六日、あと……」切羽詰るように聞こえてくる謎の期限に追われながら、父と母の重たい愛情の足かせをひきずりながら、の七日間の冒険の物語なのだ。
わずかばかりの手がかりを追っていけば、周到に張り巡らされた罠が見える。
それは少女を捕まえ、家族を捕まえている。自分をさがすことは、自分を救う事でもあり、家族を救うことでもあり、あるいは、両方を亡ぼすことになるかもしれない。


幻想的な忘れがたい場面もたくさんだ。
「はぐれもの(ビサイダー)」と呼ばれる不思議な人たちが出てくる。
不思議な人たちの住む不思議な町がある。
間口の狭いその場所は、奥にそんなにも大きな広がりを宿していたのか、と驚いたりもする。
九月に雪が降る。
真夜中、降る雪のなかを、路面電車がいく。馬車や黒いダイムラーに姿を変えながら。
光りながら、音もなく屋根の上を跳ねて飛んでいく人たちがいる。
雪の路上には、疾走するサイドカーつきのバイク。


おかあさんがトリスに呼びかける「カエルちゃん」という愛称、おかあさんはなぜそんなにも無邪気に(無神経に)呼びかけられるのだろう、と最後に別の場面で出てきたその言葉を読んだとき、ふと、思った。
トリスは、カッコーの子どもだ。
敵の手のなかでの「カエル」だ。
同時に、家庭のなかでも「カエル」だった。


これは、少女の自分探しの物語だ。そして自立の物語だ。
不思議な世界と現実の世界のあわいを軽やかに走り回るが、その冒険は、狭くて濃い家庭のなかでの子どもの葛藤の写し絵のようにも感じるのだ。
二重写しの物語。
さらに、この本を読みながら自分の物語を生きようとするティーンエイジャーたちの物語でもあると思う。
「人というものは大きく変わることがある――ときにはわずか一週間のあいだでも」
「世界は壊れて、変わって、踊っている。いつでも動いている」
きっとそう。
若い人が、柔らかく身を揺すりながら、我が道を進んでいけたらいいと思う。おおらかに、自分自身の歌を歌いながら。