『とんがりモミの木の郷』 セアラ・オーン・ジュエット

 

とんがりモミの木の郷 他五篇 (岩波文庫)

とんがりモミの木の郷 他五篇 (岩波文庫)

 

 

この本に収録されているのは、180ぺージほどの『とんがりモミの木の郷』と、五篇の短編。


『とんがりモミの木の郷』
語り手の「わたし」は、2、3年前に立ち寄って惹きつけられた港町ダネット・ランディングに、この年、夏の間の滞在先として再訪する。
その間に、「わたし」が出会ったり、噂に聞いた人びとのことを、素描のように描きだす。
終生沖合の無人島で一人で暮らした隠遁者ジョアンナ、嘗て世界じゅうを探検して歩いたリトルペイジ船長など、さまざまな人生の物語を次々に聞かされるが、どれも、もはや過ぎたこと、過去の出来事だ。
語り手の前に現れるのは、穏やかな目をした、老境の人ばかり。
夏の間、事件らしい事件は一つも起こらないし、大きな盛り上がりはない。


「わたし」が滞在する下宿の魅力的な主人ミセス・ドットは、
「有能で心優しく、忙しい仕事に没頭する人」のように見えるが、「遠くから眺める姿には、仲間のいない孤独さが痛いほど感じられ、奇妙に冷静で謎めいた雰囲気があった」
という。
ミセス・ドットの印象は、この物語に出てくる老人たちそれぞれについても、多かれ少なかれ当てはまるのではないか、と思う。
誰かを訪問したり、誰かと和やかに語らったりしていても、それぞれ、他人を容易に寄せ付けないような、深い暗がりのようなものを抱いているように感じる。
それぞれが、それぞれの容易でない人生を知っている、互いに。
そうして、相手の孤独を敬意をもって守る知恵者たちが、この町で暮らしている。


この本を読み始めたとき、私はとっても楽しかった。
せなかからモミの林に抱かれ、前には海が広がる小さな町。
細々と描写される登場人物たちの陰影。
ほぼ穏やかに過ぎていく夏の日々の一コマ一コマも、楽んで読んでいた。
だけど、何事もなく過ぎていく日々は、単調にも感じられるのだ。
一気に読み進めるには、ちょっと長い、と感じた。
これは、他の読書や、他の仕事の隙間に、少しずつ、のんびりと味わうのがふさわしい作品なのかもしれない。


他五篇の短編は、『シラサギ』(主人公は少女)以外は、老人たちの物語で、過去の思い出が、ささやかな日常を彩ったり、ときどき小さな風を起こす。『とんがりモミの木の郷』に通じるものがあると思う。
ささやかなりの波風は気持ちがよくて、珠玉、と呼ぶのが相応しい小品ばかり。
この本、短編の方が、わたしは好き。