『ぼくたちもそこにいた』 ハンス・ペーター・リヒター/上田真而子

 

ぼくたちもそこにいた (岩波少年文庫)

ぼくたちもそこにいた (岩波少年文庫)

 

『あのころはフリードリヒがいた』の続編。(三部作の二作目)
少年時代をドイツ少年団、ヒトラー・ユーゲントで過ごした「ぼく」は、そこでの体験と、ともに活動した友人ハインツ、ギュンターのことを語る。


ハインツは、聡明で公平、友人思いで勇敢な少年だった。
誰からも好かれていたし、よきリーダーだった。
まさに優等生、だけど、彼には嫌味がない。この少年をことさらに愛おしく(そして苦しく)思うのは、そうあろうとすることが、彼にはどんなにか辛かっただろう、と感じさせる、横顔がところどころで読めるからだ。
聡明な彼だから、表に出さなくても感じていたことは多々あったにちがいない。葛藤もあっただろう。そうであればあるほど、一途に無私に、自分を追い込んでいったのだろう。
そう、一途。ハインツは、立ち止まることも後戻りすることもできなかった。


ギュンターのお父さんは共産党員だ。
「ぼく」やハインツの父親たちが、ヒトラーのもとでの明るい未来を信じていた頃、「ほんとうはあいつに破滅へと引きずりこまれていることに気づかんのだ」と語り、投獄もされた。
そういう父のもとで大きくなったギュンターは、それでもハインツが好きだった。だから、ドイツ少年団にも、ヒトラー・ユーゲントにも入団した。
主義よりも正義よりも、何よりも友といることを選んだ。
ギュンターは、後に、辛かったと言った。「きみたちの言うこと、考えること、なにもかも、ぼくにはなじめなかった」
それでも「ほんのときたま、本当におもしろいと思うこともあった」のだ。


そう、本当におもしろいと思うこと。わたしもこの本を読みながら、「ときたま」それを感じた。
歓びや悲しみ、怒り、友だちを顧みるその表情が目に浮かぶようだった。三人の日々のちょっとした一コマが、まぶしかった。あるいは少年たちを主人公にした冒険物語を読んでいるような弾むような喜びをあじわったりした。
でも、それはほんとうにわずかな時間にすぎず、(そんな弾むような時間があっただけに)彼らの立ち位置や見つめる方向を思い、いっそう重苦しい気持ちになった。
彼らは素直に、ハーケンクロイツのもとに馳せ参じた。


上意下達を旨とする、ミニ軍隊のような団体では、なぜ年長者は徒に年少のもの(あるいは位が下のもの)をいたぶるのだろうか。
力を誇示するためにいじめたり、無理難題をおしつけたり、意味のない我慢を強要したり。
子どもたちは理不尽な要求を受け入れることに慣れていく。戦争という大きな怪物を支える歯車なりネジの一本に変えられていく。その課程をつぶさに眺めさせられているようで気味が悪かった。


「わたしは参加していた。単なる目撃者ではなかった。
 わたしは信じていた――わたしは、もう二度と信じないだろう」
作者による巻頭の言葉の一部だ。苦い言葉だ。
子どもたち、若者たちは、そうなるように巧みに仕組まれ、追い込まれていった。そうしなかったらどういう道があっただろう、いいや、他の道はほんとうにあったのだろうか。