『天使が見たもの』 阿部昭

 

天使が見たもの-少年小景集 (中公文庫)

天使が見たもの-少年小景集 (中公文庫)

 

表題作『天使が見たもの』は、実際にあった事件をもとにした小説である。
出来事だけを見れば、ショッキングな事件である。
無駄な飾りを極力省いて、主人公の少年の行動を追う文章は、清々しいくらいに澄み切っている。
その澄みは、このように描写するしかない少年に寄り添おうとする作者の思いなのだろうか。あるいは、このように書かずにいられなかった自分自身(を含む周囲)への静かな怒りでもあろうか。
インパクトが強く、一読したら忘れられないこの作品。
でも、そうであるために、この作品だけが、この短編集のなかで、突き抜けていて、異質、と思える。


私はその他の作品たちについて感想を書いてみたい。
端正な文章である。
いくつかの作品を大雑把にまとめると、こんな感じになる。
戦後すぐのころ、軍人だった父が帰ってきた家庭の少年が主人公の物語。
その少年が父になる。職業は小説家。父の目から見た幼い息子の物語。
幼い息子は成長し、独り立ちを間近に控え、父子が激しく対立する頃の物語。
これらの短編集の主人公たちは、一部を除いて、作者自身がモデルなのだろう。
ほとんどが私小説である。
それから、おもに母子家庭で育った少年の物語がある。


父と子の間には、隔たりがある。
父子の物語では、真向からそれを見せられるし、たとえ父が墓の下に眠ってしまっても、子にとって、その壁は消えることがないのだ。
少年が主人公の物語では、父のしょうがなさをじっと見据え(幼いのに、もうお父さんのしょうがなさに気がついてしまう)それでも、うつむきながら、怖れながら、情けなく思いながら、その父にくっついて、ちょっとでいいから別のものがみえないか、と望んでいる子どもの姿が悲しい。
母子の物語では、むしろ父の不在を、ことさらに意識させられる。


どの物語も、どんよりと淀んだような空気が満ちている。
明日も明後日も、やっぱりみじめだろう。と思う。
だけど……


『子供の墓』『言葉』など、父親が幼い息子とふたりで過ごす時間を書いた作品がわたしは好きだ。
あどけないような会話をかわしながら、父親は何をみているのだろう。この子の向こうに、幼い頃の自分と亡き父がいる。もしかしたら、一足飛びに、死そのものを眺めているのか。
あるいは、やっぱり、ただあどけない話なのだろうか。


この父と息子は、どうしようもない。子が大きくなれば、しょうがなさもきわだつ。
この「どうしようもない」ことを、特に好転させようなどとは誰も思っていない。
ただ、そのどうしようもなさが、ときどき滑稽に見えてくる。
緊迫した場面ではないか、と思うあたりで(親子がいさかい、真冬の夜に裸足で家を飛び出した子どもはみつからない。など)そう思うそばから、どこかで空気が抜けていくような気がする。
醒めた文章だ。自分自身をつきはなして第三者のように描きだしている。そうして、軽く笑い飛ばしたりもしてしまう。


また、「どうしようもない」父子の斜め下あたりに、寂しいような温いようなものがあるのを感じる。
それは、壁越し(壁があるなら仕方がない)でも響き合う(かもしれない)ような、小さな振動の気配だろう。
やりきれない気持ちのなかで、ふと目に入ってきた、どうってことのない景色が、妙に鮮やかで忘れられなかったりもする。