『森と私とフクロウたち』 クレア・ローム / 蛭川久康(訳)

 

森と私とフクロウたち (1981年)

森と私とフクロウたち (1981年)

 

 

著者は、モリフクロウの幼いみなしごに出会い、はからずも手許で育児をすることになった。
ウィリーと名づけ、一緒に暮らし、やがて(森から迎えに来た?)雌フクロウとともに巣立っていくのを見送る。
この体験をきっかけにして、六年のあいだに、四羽のモリフクロウのみなしごの母になる。
その間に起こった様々なエピソード、いいや、巣だったあとさえも(フクロウたちは、森に帰っても、ときどき著者に会いにやってきた)たくさんの思い出を残してくれた。
フクロウと人であっても、種をこえての信頼関係が成り立つことをフクロウたちは教えてくれた。どうあっても変えることのできない(変える必要もない)人として、フクロウとしての各々独自の生き方を、互いにどのように譲りあい、尊重し合って暮らすかは、いつでも課題だった。というより、この本に書かれているのは、自分(とその社会の)ルールを認める・認めないの、二者のせめぎ合いの記録で、後日に書かれたものだからこそ笑えるけれど、それはどんなに大変だったか、と思う。


人の子の子育てと、気持ち的には、よく似ているのではないか、と思う。
子も、フクロウも、彼らが後々一人で生きていく世界からの預かりものであることを、巣立ちの日に、親は思い知らされる。
後ろを振り向くこともせず、さっさと立ち去っていく、嘗ての同居人の背中を見ながら、喜ばしくも、寂しい気持ちで、見送るのだ。


フクロウたちは、いろいろな思い出をくれた。
私が一番好きなのは、嘗ての子フクロウたちが、森へ巣立っていったあとの出来事だ。
著者の元にやってきたある来客が、帰りしな、家の外で、自分の前を横切るフクロウを見たことを「素晴らしいことが起きた」と喜んで語る。そこで、著者は、フクロウの声で、森に呼びかける。嘗ての養い子たちが(連れ合いや子を連れて)頭上の枝に次々に現れ、思い思いに過ごして、立ち去っていく。
それを、ことばもなく見守る客人。ことばを失わせたその心のありように、わたしも同化するのだ。


次々に四羽のフクロウと暮らした著者は、画家である。
豊富な挿絵は、フクロウへの愛情に満ちている。


巻頭の辞が好きだ。
「チッピー(三代目)にささげる。
 もしその助力がなければ、
 本書の完成は半分の時間ですんだであろう」
状況がいろいろ思い浮かぶ。そして、ついつい笑ってしまう。