『トリック』エマヌエル・ベルクマン/浅井晶子(訳)

 

トリック (新潮クレスト・ブックス)

トリック (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者: エマヌエルベルクマン,Emanuel Bergmann,浅井晶子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/03/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

世紀の魔術師、大ザバティーニが舞台を浚う。


物語は、二つの場所から、同時に(交互に)スタートする。
一つは、20世前半のプラハ。貧しいユダヤ教のラビの息子、父から聖職に就くことを望まれていた少年モシェが、魔術師を探して家を出る。彼は、魔術師になりたかった。
もう一つは、21世紀初頭のロサンジェルス。裕福なユダヤ人家庭の息子マックスがやはり、魔術師を探して家を出る。離婚調停中の両親を再び結びつけるために、愛の魔法をかけてくれる魔術師に探しに行く。
別の時代、別の場所で、魔術師を探して家を出た二人の少年は、遅かれ早かれ、望み通りに求める人に出会う。のだが……


「ここに存在していることが、生きていることが、それだけでもう、ひとつの祈りなんだ」
これは、ラビの言葉である。家を出たきり二度と再び生家に戻らなかった少年は、数奇な運命をたどり、唾棄すべき生き方もしてきたが、父のこの言葉を生涯忘れなかった。
そして、読者のわたしも、この本を読んでいる間、何度も思い出した言葉だった。


魔術師になった男は思う。
「舞台奇術とは物語を語る一形式にほかならない」「どのトリックも、ひとつのドラマだった」
魔術師の魔術は、トリックとはったりの集大成、とこの本を読みながら思う。
それは、先に出てきたラビの言葉(祈り)とまったく逆の方向を向くような「物語」ではないか、と。
だけど、トリックとはったりの魔術が、確かに奇跡を起こすこともあるのかもしれない。
それは、どういうことか……


決して甘やかで夢々しいおとぎ話ではない。
なぜなら、家を出たモシェの青春時代は、ナチスの支配するドイツにあった。
表だっては、そこまで残酷な場面が出てくるわけではない。
文章は、軽快で、ユーモアもある。
でも、心底恐ろしいものは、むしろ、軽快さのなかにあるのかもしれない。
「灰の水曜日」の場面だ。
ユダヤ教シナゴーグに、火が放たれる。燃え落ちるのを、多くのベルリン市民が遠巻きにして眺めている。
一人の母親が幼女を抱きあげて、「童話を語って聞かせているかのよう」な調子で言う。「ユダヤ人にさよならを言いなさい」
一滴の血もない、激しい言葉も悲鳴もない。あるのは、幼児に童話を語るような母親の言葉。それが、なんとも恐ろしかった。


さて。
世紀をまたいで、一つのトリックが仕掛けられる。トリックが、本物の奇跡になる。ほんものの魔法になる。
知っているのは魔術師と、魔術をかけられた者だけ。
トリックとはったり。これを奇跡に変える、声なき呪文があるとしたら、ある少年について語られる、こんな言葉ではないだろうか。
「日常生活よりもより真実に近いなにかを信じたいという願望」
ここに祈りがあるのかもしれない。