『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』 斉藤倫

 

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始まりは、「きみ」が、「ぼく」の家へやってきて、「先生に、ことばがなってないっていわれた」と、ぼやいたこと。
「(本より)ゲームのほうが、ぜんぜん、おもしろいよ」という「きみ」に先生は「ぜんぜん、のあとは、否定がくるんだ」っていったのだって。
「ぼく」は、「きみ」に、藤富保男の「あの」という詩を差しだしす。
「あなたも笑ったし
 僕も笑わなかった」
で、はじまる詩……
(これこそ、ことばがぜんぜん、なってないじゃないの!)


「きみ」は率直に言う。
「詩ってこんなでたらめ書いていいんだ」
「ぼく」は、「でたらめを書いていい」と答えながら、こんな風にも言う。
「でたらめをやれといわれて、やれるひとは、なかなかいないんだ」「でたらめって、ちゃんと考えなきゃできないんだ」
そして、さっき、「ぼく」が先生に指摘されたという、否定がこない「ぜんぜん」に戻る。
「せんせいが、本を読め、といったことに、きみは、ぜんぜん、といったね。そこには、そうじゃない、という、きみの否定の気もちがちゃんと、はいっているだろ」
「あ!」と言ったのは「きみ」だったけれど、読者の私でもあった。
「きみ」は、さっきの詩に、もう一度目をおとす。私も「きみ」といっしょにもう一度、読み直す。
ちょっと伸びあがってみれば、でたらめ、という壁の向こう側に、別の世界があることに気がついてくる。
「きみ」といっしょにわたしも、詩を読む。
そして、「きみ」の感じたままの率直なことばに、また「あ!」と思う。何度も「あ!」と思う。


ことば、意味、くりかえし、比喩、オノマトペなど、十のテーマごとに分かれているが、全部で二十(+α)の、様々な詩人の様々な詩が集められた詩集だ。
これらの詩は、「きみ」「ぼく」の会話の前と後とでは、読み方も味わい方も変わってくる。
この本に載っている詩は、特別にこどものために書かれた詩ではない。歌っている内容も、子どもにはちょっと難しいんじゃないか、と最初はちょっと思った。
けれども、「ぼく」はそんなことに頓着しないのだ。そのときどきの「きみ」の様子をみながら、「ちょっと読んでごらん」と差しだす詩を、「きみ」は、ちゃんと(「ぼく」のことばをかりていえば)「ちょっかんてきにわかってる」のだから。
実際、「きみ」のストレートな感想(?)に、私は何度も「あ!」と思った。
子どもには難しいんじゃないか、とは私、なんにもわかっていない、ずいぶん失礼な言い方だったよね。


この本のなかの「きみ」は、ときどき、「きみたち」に変わる。「ぼく」は、この本を読んでいる「きみ」と同年代の読者にも、呼びかけているのだ。
「きみたちはふしぎだ。ぼくもきみたちだったのになあ」と言って……


さらに、この詩集は、詩集であるが、別のものでもある。「ぼく」と「きみ」の関係が、だんだんわかってきて、ある物語がみえてくる。


「詩」ってなんなのだろう。いろいろな答えが、本のなかのあちこちに書かれている。
わたしは「くりかえし」や「ほんとうのこと」について語った言葉を、そして、最後に贈られた(確かに贈られたような気がしたのだ)詩を大切に覚えていたいと思う。
「ぼく」のこの言葉とともに。
「もう知ってると思うけど、くちずさむだけで、だいじょうぶだ、とおもえるような詩が、せかいにはたくさんある」