『ブボのいた夏』 ベルンド・ハインリッチ / 渡辺政隆(訳)

 

ブボがいた夏―アメリカワシミミズクと私 (ナチュラル・ヒストリー選書)

ブボがいた夏―アメリカワシミミズクと私 (ナチュラル・ヒストリー選書)

 

 

生物学者である著者は、ある早春、自宅のあるバーモント州で、大雪で破壊されたアメリワシミミズクの巣から、生き残った一羽のヒナを保護する。
著者は、謎の多い野生のアメリワシミミズクの生態を研究するために、手許で育てることにした。
名前はブボで、アメリワシミミズクの学名ブボ・ヴァージニアヌスにちなんで名付けられた。


「はじめに」で、
「この本は、科学論文ではない。どちらかと言えば、半自然条件下で野生動物を身近に観察した個人的な記録である」と書かれているとおり、ブボの育児日記として、あるいは著者とブボとのちょっと変わった友情の記録として、読んだ。
ことに、メイン州の森の中の山小屋で、ブボとともに過ごした三回の夏の日々が素晴らしい。


給餌の大変さ、移動させる手段、など、ブボも著者も、はじめて同士、試行錯誤を繰り返しながら、徐々に、かけがえのない仲間になっていく。
(ブボにとって、著者はいったいどういう存在だったのだろう。親でもなく、つがいの片割れでもなく……)
成長したブボは手に負えないほどのやんちゃものになるが、そのしぐさの描写は、ユーモアにあふれ、なんとも言えない愛おしさを感じる。
鳴き声や、くちばしでたてる音などで、その時々のご機嫌がわかる。
著者の腕をくちばしで愛撫するようになぜる。
小屋の内外のお気に入りの場所、お気に入りの遊び。
困ったり怯んだりしたときの表情……
小屋に近づく著者(とその妻)以外の人間を侵入者と見なして、攻撃するので、危険なことこのうえないのだが、著者は、ちょっとそれを楽しんでいるように見える。(私はそこへ出かけて行ってブボの歓迎を受けるような経験はしたくない)


「私はブボが大好きになっていた」と、ともに暮らしはじめて一月めで、著者は書いている。
アメリワシミミズクとの暮らしは、おどろきの連続だった。さまざまな発見を喜び、期待にわくわくしている著者の姿は少年のようで、大好きな児童書『ぼくとくらしたフクロウたち』(著者ファーレイ・モワットの子ども時代の物語)を思い出す。
ミミズクは、すてきな(強気で頑固な)相棒だ。
「もしかしたら私は、大人の知的挑戦として自然を探っているだけでなく、子供時代にだけ味わえるそうした特別な感情を生むものがいったい何かを探っているのかもしれない」

 


けれども、それは、一方で「自然への干渉」と紙一重でもあった。
著者は、最初は夏の終わりにブボを手放すつもりだったのだが、そうならなかったのは、ブボを自立させることに、思いのほか手こずったからだった。
「自然を覗き見して楽しむ以上のことをした」
「自然への介入が多くの人にとってますます赦しがたい罪となっている」
ブボの自立が遅れ、野生復帰のレッスンを後戻りさせた、あまりにも手痛い経験も書かれていていたのだ。


夏は終わる。終わった夏は三回目の夏だろうか、そのあと何度もめぐってきた夏だろうか。
「わが人生における最高のときでもあった」という、ブボのいる暮らしすべてが(夏も冬も含めて)著者の「夏」だったのだろう、と思う。
著者の言うように、だれもがこんな経験ができるわけがない(まずできない)
「いまの社会では、自然はまるで博物館の展示物であるかのように扱われることがしばしばだ」から、こういう本との出会いが嬉しいのだ。
あちらとこちらが、深い自然という隔てを越えて、あるいは、人間と動物が一緒に暮らすための(人間側に都合の良い)方便を越えて、こういう付き合い方があることを教えられ、覗き見ることができることは、読者としてのわたしの気持ちを自由にしてくれる。
ブボや、ブボのライバル(猛禽への威嚇行動の観察研究のためであり、ブボのの教育のため)として育てられた二羽のナミガラスの姿が、そして、その背景となるメインの広大な森の描写が、鮮やかな絵となって心に残る。
もはや、著者の前にも現れなくなった、というブボ。どこかで元気でいるはずだ。