『《原爆の図》のある美術館――丸木位里、丸木俊の世界を伝える』 岡村幸宣

 

《原爆の図》のある美術館――丸木位里、丸木俊の世界を伝える (岩波ブックレット)

《原爆の図》のある美術館――丸木位里、丸木俊の世界を伝える (岩波ブックレット)

 

 

また丸木美術館に行ってきた。『原爆の図』をみに。
原爆の図は、ふすま戸くらいの大きなパネルを八枚屏風のように連ねた絵、1~15部(うち、《15部 長崎》のみ、長崎原爆資料館が所蔵)の連作で、丸木位里丸木俊夫妻が生涯をかけて描き続けた作品である。
描かれるのは群像であるが、ひと塊ではない。
描かれた、それぞれの足首であれ、ねじ曲がった手の先であれ、髪の毛であれ、そして、そのほとんどが墨や炎の赤の中で消えていたとしても、一人一人の形がみえる。ついさっきまでそれぞれの人生を生きていた、血肉をもった人の姿だ。


第一部『幽霊』の、変わり果てた人の群れが蛇行しながら歩いていくその足元に、裸の赤ちゃんが眠っている。
この赤ちゃんには、初めて来たときからひきつけられ、ずっと忘れられないでいたはずなのだが……いつのまに、わたしの記憶は変わってしまったのだろう。わたしが覚えているのは、目を見ひらいたあかちゃんなのだ。つぶらな瞳をこちらに向けて、自分がどこにいるのか、なぜいるのかも知らず、無心にこちらを見ている赤ちゃんの目が忘れられない、と思っていたはずだったのに……(原爆の図 - ぱせりの本の森2012.08.30.

今見るこの絵の地獄の中で、赤ちゃんはすやすやと眠っているのだ。目が覚めれば、慌ててだれかがとんできて抱き上げてくれることを全く疑っていない、やすらかな寝顔。


『原爆の図』は、広島に終わらない。未来へ過去へ、日本全国、世界へと続いている。第五福竜丸南京大虐殺アウシュビッツ水俣病、沖縄……『原爆の図』と同じ根っこから生まれた巨大なライフワーク。

 


この本(ブックレット)『《原爆の図》のある美術館』は、丸木美術館で購入した。
著者岡村幸宣さんは、2001年から、美術館の学芸員である。それまで、丸木美術館には学芸員がいなかったそうだ。画家を中心に、誰が職員か、ボランティアか、お客さんかわからないような「風変りなコミュニティ」だったそうだ。
美術館は埼玉県東村山市都幾川のほとりに建っているが、ここは、位里の故郷、広島市太田川の風景に似ているのだそうだ。
最初から、原爆の図を展示するために、絵の大きさに合わせて建てられた美術館だという。
小さな美術館だからこそできること、やってきたこと、ゆずれないポリシーや信念などが、いろいろな形になって美術館の内外にひっそりとおかれていることを知り、「ああ、あれはそういうこと(もの)だったのか!」と膝をうったり、「気が付かなかった。戻ってそれを見たい、確かめたい」と思ったりした。
丸木位里丸木俊の生涯の振り返り、作品の解説、原爆の図の制作過程(「共同制作」ではなくて「共闘制作」との声アリ)、発表の顛末や人々の声など、などを読めば、みてきたばかりの絵を思い浮かべながら「そんな背景があったのか」と、その都度、絵に対する思いに、新しい思いが重なる。

「二人がしばしば「大衆が描かせた絵画」だと語った《原爆の図》には、原爆を体験した無数の人びとの記憶が注ぎ込まれたのです。」

被害者としての、加害者としての、抵抗する民衆としての、原爆の図。
中学生や高校生たちが、広島への修学旅行の事前学習に、この美術館を訪れることもある、と書かれていたが、ならば、この本は、丸木美術館を訪れる前に読みたい絶好のガイドブックではないだろうか。

「死者たちの痛みに想像力を広げることは、その生にもう一度命を吹き込むことでもあります」

本のなかの一節である。


丸木美術館。
原爆の図の大きな展示室の横に小さな展示室がある。ここには位里の母、丸木スマの作品が展示されている。
息子夫婦の勧めで、70歳を過ぎてから筆を執ったという丸木スマの絵は、天真爛漫といいたいくらいにおおらかなユーモアに満ちている。
この部屋に入ると空気が和らぐ。絵もみるひとも、生きている。