『ブラウン神父の童心』G・K・チェスタトン/中村保男(訳)

 

ブラウン神父の童心【新版】 (創元推理文庫)

ブラウン神父の童心【新版】 (創元推理文庫)

 

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「二色の実が成る樹の生えている庭に近寄るでないぞ。二つの頭を持った男が死んだ悪魔の庭には門前にも立つな」
(目的地に間違いなく着いたのに)「おまえさんとわたしはまちがった角をまがって、間違った場所へ来てしまった」
「賢い人は葉をどこに隠す? 森のなかに隠す。森がない場合には、自分で森を作る」
神話やおとぎ話の中に出てくるなぞかけみたいな味わいのたとえだと思う。意味がわからなくても、ちょっと知的な言葉遊びに招待されたみたいで、わくわくとうれしくなる。
言葉の迷路をふらふらしながら、そこに埋められた言葉の意味を探している、というイメージの、連作短編ミステリである。


物語は、ひとつひとつ短編として独立しているけれど、ゆるやかな流れがある一冊だから、最初から順番に読むのがよいと思う。
二つ目の物語でちょっと驚いて、読むほどに、主だった登場人物の関係がだんだん変わっていくのを楽しんだり、残念がったりする(わたしが残念だなあと思うのは、華々しく登場した、ある人物が職業(?)をくるりと替えてしまったことなのだ。良い人だけれど、おもしろみがなくなってしまって、最初のままだったらよかったな)


ことにおもしろかったのは、『奇妙な足音』『飛ぶ星』だ。
犯人と追い詰める探偵とのあいだにある、一風変わった信頼関係が心に残る。
探偵役が「神父」であるせいだろうか、罪びとたちに対する独特のまなざしがある、と思う。
罪をおかしたものも、そうでないものも、等しく憐れまれるべきちいさな存在なのだ。そのような立ち位置で、ブラウン神父は、事件の真相を暴く。犯人に静かに訴える。
『神の鉄槌』の中のブラウン神父の言葉が印象に残る。
「高みというやつは、下からながめるものであって、そこから見おろすものじゃなかったんですね」「谷にいる人はそこから偉大なものを見る。ところが山のてっぺんからは小さなものしか見えぬのです」
心に留めておきたい言葉だ。


物語には、あちこち、忘れられない場面があって、心楽しい。
『飛ぶ星』の、月光に照らされた庭で、木々の間に間にひときわ輝きを放つ人影が踊っている姿。
サラディン公の罪』の、ちょっと『ボートの三人男』を彷彿とさせる、ゆるやかな船遊びの情景。
物語をしばし忘れて、ほーっとためいきをついてしまう。


探偵役、ブラウン神父という人は、どんな人なのだろう。
才能ある探偵は、たいてい見た目通りじゃない。(普段は全くパッとしない人物であることが多い)
しかし、ブラウン神父は、ほんとに得体が知れない感じだ。年齢までわからない。老人なのか、と思えば、びっくりするほど若々しかったり。
「東部地方の鈍物の紛れもなき典型」「ややうつろな表情」「たどたどしいながら意味の明瞭な言葉で話す」「あどけない丸顔」「子どものような生き生きとした生真面目な顔」「意外に活発な動作でカウンターを跳び越え」「門にのっかっている子どものように短い足をばたばたさせた」「ぼんやりした丸顔のじいさん」「赤児のように真剣なまなざし」
くるくる変わる表情に、読むほどに翻弄され、それゆえに惹きつけられずにいられない。

もっと読みたいと思う。