『月白青船山』 朽木祥

 

月白青船山(つきしろあおふねやま)

月白青船山(つきしろあおふねやま)

 

 ★

そこまで読んで、彼がそうだったのか!と、びっくりした。だから彼だったのか、と。いやいや、それは、もっと早くに分かっていてもよかったのに。ああ、わたし、鈍い。
不思議な白い猫に導かれての宝さがしだった。最初に埋める場面を見ているはずなのに、その場所がわからない。平面の地図になってしまうとなんでわからないのだろう、と三人の子どもの手もとを後ろから覗き込んでおろおろしていた。


待て待て……。


夢中で読んで、クライマックス付近で感じたことをまず書いてしまった。先へ先へと気が急くまま読んでしまったけれど、この物語、ほんとうは、途中をもっと大切に読みたい物語なのだ。
見どころはたくさんだから、何度でもゆっくり読みなおす。


舞台は鎌倉(主に北鎌倉)だ。
山あり海ありの豊かな自然がつくりだす景観(たとえば、こんな言葉で描写されるのだ「木々は、まるで風を楽しんでいるようだった」)
切り通しや、古井戸、稚児の墓、これらは八百年以上も前に人によってつくりだされた景観。
自然のものと人工のもの(ともに長い時間を経ている)とが混ざり合って生まれる光景は、名所や史跡という気負いもなく、現代の暮らしのなかでともに(過去の人びとの思いとともに)生きている感じだ。


物語のなかには鎌倉の歴史や民話がたくさん紹介されているが、遠い時代の人たちの物語は、まるでつい先日亡くなった人の話のように感じられる。
八百年以上前に起こった出来事は今も起こっている。同じ景色のなかで、人々は暮らしている。
こういう場所だから、異世界(あるいは今ではない別の時間)が、その曲がり角の先や、繁った草木の先にひょいと現れたとしても、すんなり受け入れられそうな気がする。
タイムスリップ? 隣近所にいくよりは厄介かもしれないけれど、ほら、ちょっとそこまで。そんな気持ちで行けるような違和感のない場所。
鎌倉、という土地の佇まいが、そのままファンタジーなのかもしれない、と読み終えた今、思っている。
いいや、鎌倉は、ファンタジーの主役なのかもしれない。
鎌倉が生きている、呼吸している。


小学五年生の主税(ちから)と、四つ上の兵吾の兄弟は、夏休みを、北鎌倉の古い屋敷に一人で住んでいる大叔父のもとで過ごすことになった。大叔父の名も主税である(父の名も主税)
主税たちの造酒(みき)家は古い家で、代々、息子たちの名前は、長男は兵吾、次男は主税と決まっている。
直近の系図は、

             27代兵吾(伯父)
 26代兵吾(祖父) ―〈          28代兵吾
〈             24代主税(父) ―〈
 23代主税(大叔父)             25代主税


ちょっとややこしいけれど、同じ名前の繰り返しは、過去(歴史)と現代とが違和感なく混ざり合う鎌倉の物語に、なにか共鳴するものがある、と思う。
現代の兵吾と主税のなかに、代々のたくさんの兵吾と主税(の若者時代)が重なりながら、今も生きている感じ。


兄弟は、近くに住む小学5年生の少女静音とともに古い言い伝えの謎を解く。
三人協力し合って、時に忘れられた小さな谷間の村から失われた宝を探し出すのだが……
もしかしたら、もしかしたらね……
隠れた主人公は、(今の少年少女を差し置いて)嘗ての少年少女たちではないか。
現役の少年少女たちに出会い、大人になった人たちのなかに眠っていた嘗ての少年少女が目をさます。
様々な理由から、子ども時代を中途半端に終えなければならなかった人が、現代の少年少女の冒険のなかで生き直しているような感じだ。
もしかしたら、幽霊たちも戻ってきて、ともに額を寄せていたかもしれない。中途で終わった自分たちの物語の続きを探して。
それも、鎌倉(だからこそ)の冒険に相応しいのではないか。


ああ、夏が終わる。

この夏の冒険がもたらした宝物が静かに輝きだすのは、きっと、このあと。
手をのばしても届かない大切なものへの思いと混ざり合って、きっと静かに静かに輝く。