『何があってもおかしくない』 エリザベス・ストラウト/小川高義(訳)

 

何があってもおかしくない

何があってもおかしくない

 

 

『私の名前はルーシー・バートン』の姉妹編。
さびれた田舎町アムギッシュのなかでも、群を抜いて貧しいバートン一家の末娘ルーシーは、大学へ行くためにここを出ていき、やがてニューヨークに落ち着いて作家になった。
この本に収められた九つの短編は、ルーシーの幼い頃を知る人びとや、その周辺の人々のその後の物語だ。
ルーシーの兄ピート、姉ヴィッキー、嘗ての小学校の用務員トミー、ルーシーの従兄妹、近隣の町に住んでいた人たちや、知り合いのまた知り合いにあたる人たち。


彼らにとって、作家として成功したルーシー・バートンは(直接知っている人も、そうではない人も)惨めな暮らしから「逃げ出すことに成功した人」なのだ。
一方で、この町に暮らす人たちは、逃げ出せなかった人たち、ということになる。
そういう考え方をするとき、その人の中には、きっと鈍い怒りのようなものがある。
けれども、「逃げ出す」ことに成功するなんてことは、ほんとうに可能なのだろうか。


逃げ出したい生活ってなんだろうか。
貧しさ、児童虐待、戦争後遺症……
思いがけず知ってしまったことにずっと苛まれたり、ずっと緩慢に続きながら少しずつダメージを受けていることもある。
人を傷つけたり軽蔑したりすることも、自分のなかの「逃げ出したい」のひねくれた一部かもしれない。


そうした人々のなんということもなく続く日々のはざまにスポットをあてて、彼らの中から現れる、どうしようもない寂しさや、弱さ、それから思いがけなくあらわれる強さ、美しさをちらっと見せてくれる。
人の記憶って曖昧なものだ。なにかを「こういうもの」と思いこむ根拠って、ほんとにわずかな出来事なのかもしれない。
同じ人物のことが、おなじ事件のことが、そこにいた別の人たちにはそれぞれ別のものに見え、別の意味を持って記憶されるように。


どの物語も緩やかに繋がり、登場人物は、複数の別の物語に顔を出し、主人公になったり、脇役になったり、あるいは遠景になったりして、彼らの人生は続いている。
だれにもわかってもらえなくて、わかってもらおうなんて思っていなくて、でも、やっぱり繋がっている。緩やかに、細く。読者としてはそれがあとからわかったとき(あの話のあの人が、こちらの話のここにいた!とわかったとき)ちょっと嬉しくなる。
少なくとも、あなた、そこにいて、ほら、そんなことちっとも気がついていないだろうけど、こちらを嬉しくしてくれたよ。


きっと逃げ切れる人生なんてないのだろうし、どうでもいい人生なんてない。いやいや、ただ生きている、というだけで、充分にたいそうなことだ、と思う。
ささやかな一瞬だ。小説のなかの当人さえ、もうそんなことがあったなんて忘れているかもしれない。そのささやかさが、一瞬が、いとおしい。