『クネレルのサマーキャンプ』 エトアル・ケレット / 母袋夏生(訳)

 

クネレルのサマーキャンプ

クネレルのサマーキャンプ

 

 

シュールなショートストーリーが31篇。(うち、表題作『クネレルのサマーキャンプ』だけが中編)
へんてこな世界、へんてこな人々、へんてこな出来事の物語なのに、なんとなく懐かしく感じるし、共感の思いが湧いてくる。ほのかな悲しみも感じるが、どこかのほほんとした味があり、たいていはからりと明るいのだ。


印象に残るのは・・・
『トビアを撃つ』 飼い主以外の誰に対しても徹底的に狂暴な犬トビア。父親に何度捨てられても戻ってくる一途さが、たまらない。
『靴』は、『コドモノセカイ』(岸本佐知子編)で読んでいる。最後の一行があまりに見事で潔くて、むしろ、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになってしまう。
『子宮』『きらきらぴかぴかの目』『死んじゃえばいい』も心に残る。


ところが、訳者あとがきには、こんなふうにも書かれている。
「兵役時に綴った作品を含む『パイプライン』以来、ケレットは戦争やテロによる死のみならず、自死や病死を含めた「死」を追いつづけているようでもある」
どきっとした。そんな風に思って読んでいなかったから。
言われてみれば、確かに、この作品集には、さまざまな「死」が、さまざまな姿で描かれている。
でも、それを意識して読み始めると、さらっと、感想はね、とか、わたしは思うのね、とか、言えないような気がしてくる。(だから、無意識にそちらのほうを見ないように、気がつかないふりをして、読んでいたのかもしれない。)


あえて「死」を念頭において読みなおしてみるなら……
一作目、表題作でもある『クネレルのサマーキャンプ』は、自殺した人たちが行く世界(天国ではないのだろう)の物語。
ここでは、まるでこの世となんら変わらない生活が繰り広げられている。ときどきおかしな奇跡は起こるけれど。
人々は、生活のために職をさがし、カフェで会った人物と友だちになり、ドライブしたり、恋をする。ここで平々凡々、ごく穏やかに暮らす人々に、「だって自殺したのでしょう、それほどに苦しんだのでしょう、それなのに、どうしてそんな風にあっけらかんと暮らせるの?みなさん」と尋ねたくなるような飄々ぶりである。
死のハードルがとても低く見える。低すぎて、わざわざそこを飛び越える意味さえわからなくなるくらい。


現実の世界を生きる人々の物語のシュールさは、死という言葉でつながっているようにも思えてくるのだ。
『善意の標的』も、『死んじゃえばいい』も、「死」がすぐ隣に座っている。
『トビアを撃つ』もそう。死なない、ということに、むしろよりいっそう死を意識させられる。
『でぶっちょ』の夜ごとの変身は、どういう意味だろう。もしかしたら、「ぼく」は、生と死と一緒に暮らしていたのではないか。両方とも慈しみながら、両方とも疎ましく思いながら。
そして『子宮』。命をはらむその美しい子宮は死んだ母体から切り離されて美術館に陳列される。『靴』でホロコースト美術館に飾られていたおじいさんの写真と一緒だ。


そうでありながら、なぜそんなにも優しいのだろう、ケレット。
日々死につつあるものたちへの憐みだろうか。
死につつあるのに、死なずにいる者たちへの共感だろうか。
命あるもののことを語れば語るほど、死につつあることを意識しないでいられないように、
逆に「死」を意識して読めば、この本の行間からは、「生」がたちあがってくるのが見えてこないだろうか。
『トビアを撃つ』のトビアはそれでも生きぬいた。
『善意の標的』を死なせることはできなかった。
『子宮』は命から切り離されても、手を触れることのできないところに行ってしまっても、やっぱり、かけがえなく美しかった。


最後の『パイプ』を読んで、『クネレルのサマーキャンプ』の尻尾が、ここにつながっていることに気がついて、不思議な感じになる。
その世界の憐みに、こちらから呼びかける。ねえ、もどっておいでよ。