『スティグマータ』 近藤史恵

 

スティグマータ (新潮文庫)

スティグマータ (新潮文庫)

 

サクリファイス』に出会ったのは10年ほど前で、そこで私は、自転車ロードレースという競技を初めて知った。 
その後、シリーズになり、この本はその最新作だ。
(『サクリファイス』の後の二冊を飛び越してこの本を読んでしまったけれど、道に迷うこともなく、大丈夫でした。とはいえ、魅力的な面々の物語をまだ読んでいない!ことが悔やまれる。順番通りに読めば、事情に通じ、この本はもっともっとおもしろかったはず)


白石誓は、今は、オランジュフランセというフランスのチームの一員で、あいかわらず役割はエースを支えるアシストである。
自転車ロードレースはチーム同士の戦いだ。確実にゴールするエースを支えて、チームのそれぞれが役割を負う。アシストはエースの風よけであり、縁の下の力持ちのようなもので、華々しい表舞台に立つことはない。最初からチームの犠牲になるためにしつらえられたポジションなのだ。


優れたアシストを目指し、その役割を清々しいくらいに貫くチカ。
目の前、手の届くところに表彰台に続くゴールがあるなら、何もかもをうっちゃって駆け抜けたいと思わないか。でも、あえて、そこで後ろに下がる。
ロードレースは紳士のスポーツなのだ。
けれども、『サクリファイス』から十年。今のチカには、自分の先行きが見え始めている。
アシストに徹しながらも、チームメイトや嘗ての仲間やライバルたちの華々しい活躍を目にすれば、ちらりと疼くものもある……
その「ちらり」に、わたしはほっとする。柔らかいチカがそこにいるのを感じて。


チカはもう若くない。(アスリートの「若さ」はあっというまに消えさる)
若くない、と感じているのは、チカだけではないはずだ。
頂点を極めたことのある選手たちは、みな、その先の長い下り坂がきっと見えている。
だから、「イストワール」という言葉が、こんなにも心に残るのだ。


イストワールとは、「物語」という意味だそうだ。ある選手がチカに言ったことばだ。
「プロ選手になにが必要か知ってるか?」
その答えが「イストワール」なのだという。ファンは、選手に、美しい歴史や物語を求めているのだと。


タイトルになっている「スティグマータ」の意味は、聖痕(十字架に磔にされた際のイエス・キリストと同じ傷跡)
あの人のあれのことか……
いやいや、だれもが何かしら、胸に刻み込まれた印を持っているのかもしれない。
忘れたくても忘れられない。忘れてもらえない特別の印。
だから、イストワール=物語が欲しい。大きくうねるような物語の中で、印は意味あいをかえていくだろうから。


風が吹いている。
世界一過酷なレース、23日間に及ぶツールドフランスが始まっている。
夏の蒸し暑さも、地形の難も、はてしないほどの距離と日数と、ライバルたち……それから不気味で重たい影をも突き抜けて、選手たちは駆け抜けていく。