『サンアントニオの青い月』 サンドラ・シスネロス くぼたのぞみ(訳)

 

サンアントニオの青い月

サンアントニオの青い月

 

 

「物語を読んで目をみはる思いがするのは、メキシカン・アメリカンといわれる人たちに対してわたしたちがこれまで抱いていた漠然としたイメージが、どれほどあいまいでステレオタイプだったかに気づくときだ」とは、訳者あとがきの中の言葉だ。
「この世界にはまだまだ無数の「見えない人たち」が存在することに気づく瞬間」とも書かれている。


見えない人たち、見えなくされている人たち一人一人の物語をたくさん読んだ。
「わたし」こと、物語の語り手たちは、みんな違うのだけれど、これだけたくさん読むと、やっぱり共通するものを探したくなる。
彼女たち(語り手はみんな女性だった)は、状況は異なるものの、貧しく、余裕のない暮らしをしている。よくよく話を聞いてみれば、ほとんどの人たちが解決しようのない(もう投げ出すしかないのかな)問題のただなかにいたりするのだ。
けれども、読んでいると、音楽が聞こえてくるようだ。彼女たちの語りは、ラテン系のめっぽう明るい音楽に似ている。陽気にさえ思える。
なぜか、と言えば……
彼女たちは、後ろを振り向かない。(来し方を語るとしても、そこに後悔はない)
未来を案ずることもしない。(なるようにしかならない)
ただ、今だけを語る、清々しいくらいに。
今このときを生き抜くことに全力を尽くす、そういうことかと思う。


時代も年代もさまざまな「わたし」、状況もさまざまな「わたし」
大きく三部に分かれた短編たちのなかでも、好きなのは、第一部七編の、子どもの「わたし」たち。
ことに『十一歳』が心に残る。
十一歳の少女のみずみずしい感性が好きだと思った。「大人になっていくって、なんていうか、タマネギみたいに、木の内側にある年輪みたいに、あたしがもってるお人形みたいに、それぞれの年が内側に入ってるって感じなんだ」
だけど……「わたし」の十一歳の誕生日には、とんでもない贈り物が用意されていた、というわけなのだ。
机につっぷした「わたし」は、今この時、わが家の台所でママが誕生日のケーキを焼いていることを思い出す。と、書いているだけで、それが、どんなに心ときめかせる幸せな光景であるか、と思う。
だけど、ママがケーキを焼いている台所は、今、とても帰ることのできない遠いところにある。
それは、彼女の子ども時代、みたいなものだ。
もっとずっと遠いところへ旅だつ、その苦いスタートラインに、「わたし」はたったところかもしれない。
そして、思いださないだろうか、自分自身にも、おなじような十一歳(いや、実際の年齢はいくつでもいいのだけれど)があったこと。