『ダーウィン家の人々』 グウェン・ラヴェラ

 

ダーウィン家の人々――ケンブリッジの思い出 (岩波現代文庫)

ダーウィン家の人々――ケンブリッジの思い出 (岩波現代文庫)

 

 

著者グウェンが子どもだったのはヴィクトリア時代末期。
グウェンの祖父は『進化論』のチャールズ・ダーウィン、祖母はウェッジウッド家の人だった。
イギリス上流階級に生まれ育ったグウェンは、自分の子ども時代のこと、家族、伯父叔母、いとこたちのことを振り返る。
当時の住まい、服装、紳士淑女のたしなみ、教育、宗教、社交のことなども、皮肉まじり、ユーモアたっぷりに語る。
子どもは大人が見ているものを何も見えていないと高を括っていたら、とんでもないことだ。
大人が考える以上に見ているし、見えたものに、子どもなりの評価を与えているのだ、と改めて感じいる。


ことに、「淑女」については、小気味よい辛辣さだ。
流行のファッションは、グウェンにはバカバカしかった。(歳若かったグウェンは、コルセットがきらい。コルセットを付けられれば、さっさと隣の部屋で脱ぎ捨てた)
目の前に当たり前にあるものや言葉を、淑女は、場合によっては見えないことにしたり、ないふりをする。理由は下品だから。「考えることはかまわないのだったが」とは、著者の一言。


グウェンは、社交界が苦手だった。
その最初の一歩、ダンス教室が大嫌いだった。
彼女が覚えている初めての宗教体験は、「子ども部屋のテーブルの下にもぐりこんで、私たちがダンス教室に行くまでにダンスの先生が死んでしまいますように、とお祈りすることだった」


親たちの熱心な教育理論(?)に散々ふりまわされて、大人になった彼女はいう。
「読者の皆さん、私のいうことを信じてもよい。どんなにいっしょうけんめいにやっても――あるいはやらなくても――、何をやっても――あるいはやらなくても――、良かれ悪しかれ、お金があってもなくても、いつでもどこでも――親というものは、いつも間違っている」


彼女が生まれた時には、祖父はすでに亡くなっていたが、一族が夏を過ごす祖父母の屋敷(ダウン)には、祖父の気配が濃厚に残っていた。祖父が残した様々な気配から、在りし日の祖父を思う件が好きだ。
祖父は、父や叔父たちの特徴を要約したような人であったはずだ。暖かい親しみやすい声、子どもと犬が大好きで、ユーモアと透明な正直さをもったやさしい人。
彼女が慕う祖父は、卓越した科学者である必要はなかったのかもしれない。


家族や、四人の叔父二人の伯母、それから沢山のいとこたちについて、人柄を滑稽に描いてはいるが、どの言葉にも愛がこもっている。
彼女は本当に親族が大好きで誇りだったんだなあ、と思う。
だけど、これだけ仲よく結束した親族、外から入っていくのは相当大変だったんじゃないだろうかと、連れ合いたちの苦労を想像していた。


グウェンは(母のような、母が彼女に望むような)淑女になりたくなかった。彼女がなりたいのは画家だった。
淑女にとって、スケッチは上品な趣味として奨励されたものの、それを職業にすることは、もってのほかだった。
(けれども彼女はやがて美術学校に進み、版画家になるのだ。この本にたっぷり挟まれた繊細でユーモアに満ちた挿画の数々は、著者によるもの。読書中の何よりの眼福だった。)

 

楽しかった。
グウェンが弟妹やいとこたち、子どもたちだけで過ごす時間について書かれたところが、ことに好き。
いとこたち揃って、かなり本格的な劇を上演したクリスマス、
我慢できないほど嫌いな日曜学校の本の隠し(捨て)場所のこと、
年上の従兄に聞かされる怪談の恐ろしさや、屋根裏の探検、
いとこたちと一緒に過ごした夏のダウンの庭や森……