『鐘は歌う』アンナ・スメイル

 

鐘は歌う

鐘は歌う

 

 

「大崩壊」のあとのイギリスでは、文字が失われ、記録することができなくなった。そのため、人々は、物事を記憶しておくことが難しくなってしまった。
サイモン少年は、母の死後、遺言に従ってエセックスからロンドンにやってきた。自分を助けてくれるはずの人を探さなければならない。他にも母から伝えられた事があるはずなのに、サイモンにはもう思い出すことができない。
13ヶ月後には、サイモンは、テムズ川の砂の中から銀のかけら(大崩壊の名残)を拾い集める少年たちの仲間になっていたが、自分がなぜロンドンにいるのか、いつからいるのかということさえ、思い出すことができなくなっている。


この世界は霧がまいているようにぼんやりしている。読んでいる私の頭の中にまで霧が入り込んでくるようだ。
湧き上がってくる思いや映像もあるが、それらは他の記憶と結び付くことができず、頼りなく消えていく。
そんな人々を眠りからさませ、胸に希望や安心をもたらすのは、朝な夕なの鐘の音だ。


この世界で、文字の代わりに人々の間で重要な役割を担うのは音楽なのだ。
音楽は、言葉に代わって大切な事柄や、人の思いを、伝え、発展してきた。
音階の一音一音に意味を持たせ、複雑な地図さえも、メロディで表すことができる。
音楽は、人々の暮らし、人生に、結び付いている。


でも、この社会に「許された」音楽は、「調和」なのだ。
完璧な調和(ハーモニー)。
乱調も不協和音も、ここに入り込む余地はない。
一糸乱れぬ整然、完璧な調和は、読む側にとっても息苦しい。
乱調も、ミスもエラーも、汚物さえも受け入れて膨らんでいく音楽があればいい。
本当は、何の役にもたたない音楽が聴きたい。


サイモンは、秘密めいた少年と出会い、相棒になる。
サイモンたちの冒険が、ぼんやりとした記憶をクリアにしていく。
パクトの走り屋と呼ばれるサイモンたちが走り抜ける、不思議なロンドンは、なんて魅力的なのだろう。
文明の廃墟、地下に張り巡らされた無数の通路、広場の物売りたちの歌、川砂のなかで歌う銀や灰銀のかけらたち……
わすれかけていた歌……
そして、解けていく謎は、少年たちをどこに導くのか。
大崩壊、とはなんだったのか。
鐘の役割とはなんだったのか。


物語の中のイギリスはディストピアだ。
人々の気力は奪われ、記憶は盗まれるが、
「記憶不能になる原因の半分は、あきらめることを選択したせいだ」
とのフレーズが心に残った。
あきらめることが、大切なものを手放す手伝いになり、納得できないものを受け入れてしまう手立てになるということが。