『キジムナーkids』 上原正三

 

キジムナーkids

キジムナーkids

 

 

戦後すぐの沖縄。
「ボク」ことハナ、ハブジロー、ポーポー、ベーグァ、サンデーは、駐在さんにも目をつけられる悪童たちだった。
いつも腹をすかせたボクらの腹を満たすのは、アメリカーや配給所からコソ泥した「戦果」だ。
ボクらの遊び(?)は、ハブ山やガマ(洞窟)の探検、海に浮かぶ平底船の下を潜って抜けること。無鉄砲で命がけの危険な遊びを、本の外から、ひやひやしながら見ている。
ボクらが集まる秘密基地キジムナーハウスは、ガジュマルの木の絡み合った枝の上にある。分捕り品の隠し場所でもある。
へらへらしているが、ボクたちがここにいるのは、戦争を生き延びたからだ。沖縄で生き残ったからだ。
振り返れば、ひとりひとりに、その周りの大人たちにも、残酷であまりに重たすぎる物語がある。
行間から、うめき声が聞こえるようだ。血の匂い、土の匂い、腐っていく匂い、焼けけていく匂い……読むのがつらい。
でも、ボクらにとってこれは本に書かれた文字ではなく、自分自身の目の前で起こったこと、自分自身がそのまま体験したことなのだ。
子どもたちを無理やり戦争に引っ張り込んで、戦争が終わったのちにも、その続きの理不尽な悪夢を押し付けてくるのは、アメリカーと、「お国」だ。


子どもは「大人になったら」と思う。
なりたい自分を思い描いているのではない。
生きていくために、あるいは家族を養うために自分にできること、やるべきことを考えなければならない。


それでも、彼らは笑う。
何度も子どもたちの剽軽さに笑った。
何度も子どもたちのしたたかさに舌を巻いた。
何度も子どもたちの逞しさにおどろかされた。


御嶽、亀甲墓、ガマ、ユタ……
沖縄の人々の生活のなかで、古くから脈々と続いている文化の形が、さりげなく物語のなかに生きている。
破壊し尽くされ、殺され略奪しつくされた後にもなお、すっくりと浮かび上がる、これらの言葉が頼もしい。


人たちの話すウチナーグチ(沖縄の言葉)、
ガジュマル、クバ椰子、アダンの茂み、
ハブの気配、
そして、青い海。
「沖縄」が、さまざまな方向から、子どもたちの日常のひとこまひとこまを豊かに支えている。


キジムナーとは、妖怪、精霊のような存在だ。
キジムナーなんていない、という少年、キジムナーはいる、という少年。
いないという子には、そう思うしかないようなこれまでの日々があったのだし、いるという子にも、そう思わなければやっていけないような日々があったのだ。
そう思いながら読んでいると、ふと、この子たちの話をすぐ近くで、キジムナーが聞いているような気がしてくる。
カバー裏の山福朱実さんの挿画がいい。身を寄せ合って笑っている少年たちの上、屋根の様に茂った葉っぱの上でキジムナーが膝を抱えてすわっている。
そうそう、そんな感じで、キジムナーはきっと子どもたちの話を聞いている。


「……見回すと、みんな大変な思いをした人ばかりだ。生きていることが不思議な人だらけだ。だけど、なぜか明るい。悲しいから笑顔をつくるのか、嬉しいから笑顔になるのかわからない。きっと息が吸える、息が吐ける。生きて呼吸ができるから笑顔になれるのだろう」