『凍てつく海のむこうに』 ルータ・セペティス

凍てつく海のむこうに

凍てつく海のむこうに


姉妹編である『灰色の地平線のかなたに』は、ソ連に占領されたリトアニアの、「名簿に載った人々」の物語だった。
囚われた人びとは、シベリアの強制収容所に送られる。
それは、物語一面が、灰色一色に塗りつぶされたかのような世界だった。
15歳の少女リナを語り手にして、命ある人間たちが生き残るための、戦いの物語だった。


対して、こちらは、舞台が目まぐるしく変わる。ダイナミックに物語は動き、冒険の色も濃い。
1945年、敗戦を目前にしたドイツ、東プロイセンで、人々は徒歩で、避難するために道を急ぐ。
背中に迫っているソ連の兵士たちから逃れるために。
逃げているのは、ソ連兵からだけではない。自国ドイツ兵からも。避難命令が出ていないのに、自主避難する人々をドイツは許さなかったから。


語り手は、順繰りに四人。うち三人は避難民だ。


ヨアーナはリトアニア人だ。母国がソ連に占領された時にドイツに逃れていた。
そう、彼女は『灰色の地平線のかなたに』で、リナが慕っていた従妹のヨアーナなのだ。医師になるために懸命に努力していたヨアーナが、今、避難の途上で出会った人々とともに旅をしている。


フローリアンは、絵画修復の仕事をしていた若者であるが、今はあるものを隠し持って逃亡の身である。


エミリアは15歳、ポーランド人の少女だ。東プロイセンの農場に疎開していたのだが……
彼女は着ぶくれた衣類の奥に何か隠している。


三人の若者たちは、出会ったり離れたりを繰り返し、やがて、ともに旅をすることになる。ほかの忘れられない仲間たちとともに。(ああ、ともに旅した人々。印象的で魅力的な一人一人)


もう一人の語り手は、アルフレッド。17歳。ドイツ人の水兵だ。
臆病者で怠け者、プライドだけは高い、ヒトラーの熱狂的な信奉者を、戯画チックに描きだしている。
ルフレッドも、ずっとあとになって先の三人に出会う。


1945年、ドイツの客船だった「ヴィルヘルム・グストロフ」号は、一万人以上の避難民(定員の五倍以上!)を乗せて吹雪の海を渡っているとき、魚雷を受けて海中に沈んでしまった。
その「ヴィルヘルム・グストロフ」に、四人の語り手(と、その仲間たち)は集まるのだ。
追いついてほしくないいろいろなものが、つぎつぎに、彼らに迫ってきて、事態は、どんどん緊迫してくる。(見えている危機、見えていない危機)


語り手四人とも、誰にも言えない秘密を抱えて、そのために苦しんでいる。からだのなかに大きな闇があるようだ。
なかなか明らかにならない彼らの胸の内を明かされたときには絶句した。
あまりに重たい重たいその秘密は、彼らが抱えなければならないものではなかったはずだ。そのために罪悪感や後悔、恥の思いをする必要もなかったのに。
戦争が起こったとき、彼らは(ほとんど)子どもだった。
子どもが目を覆うようなひどい目にあわされて、さらに、こんなに重たいものを背おわされて、苦しみのなかに置き去りにされて。


彼らとともに旅した靴職人(「詩人」と呼ばれていた)が言った。
「子どもや、あんたのような若者には、気の毒な時代だ。この戦争のせいで、多くの若者が将来を奪われた」
でも、彼はもうひとつ、心に残る言葉を贈ってくれた。
「この戦争に何もかも奪われたと思った矢先、まただれかと出会って自分にもまだ与えるものがあると気づかされる」


物語は、隠され、忘れられていた史実を伝える。忘れられていた人々の姿を蘇らせる。
残酷で絶望的な物語に、小さな希望を添えて。



『灰色の地平線のかなたに』『凍てつく海のむこうに』姉妹編を続けて読んだ。
人間がどうしてこんなに残酷になれるのか、と思うような場面に多くであったが、読み終えた今、残酷な行為をした人間たちの顔を思い浮かべることができない。彼らに名前はあるが、個別の顔が思い浮かばない。
逆に色鮮やかに心に浮かぶのは、思いがけず出会った美しいものばかり。
『灰色の地平線のかなたに』で、作者あとがきにとりあげられていたアルベール・カミュの言葉を改めて振り返ります。
「冬のさなか、わたしはついに知った。
 自分の中に無数の夏があることを」
その夏は私の中にもあるだろうか。どうしたら見つけられるのだろう、育てられるのだろう、と考えている。