『スタンド・バイ・ミー 〜恐怖の四季 秋冬編〜』 スティーヴン・キング


恐怖の四季秋冬編。『スタンド・バイ・ミー』と『マンハッタン奇譚クラブ』の二作がおさめられています。


*『スタンド・バイ・ミー 〜秋の目覚め』
行方不明になった少年の死体がそこにあるという話を聞いた四人の少年が、徒歩で一昼夜かけてそこに死体を探しに行く。
四人の小旅行は、単調と言えば単調、波乱万丈といえば波乱万丈であるが、何よりも、その一場面一場面が、えもいわれぬ光を放つ。彼らが背負ってきた重さと、目指す先にあるものの重さとが重なって、それがさらに四倍になると、なぜだか、ひときわ明るく輝く。彼らの重荷さえも輝かしいものに感じる、といっていいくらいだ。


簡単に「重荷」なんて言ってしまったけれど、彼らの背負っている問題は、四人四様で、みんな全く異なっている。
ただ、四人ともが(本人にはどうすることもできない理由で)まるで独房のようなところに閉じ込められているように感じた。彼ら一人一人を気にかけ、その独房から救い出すこともできるはずの大人が、むしろ進んで彼らを外の世界から隔離して隅っこに追いやって口を拭っている。そんなことって……きっとあるんだね。
だから、この小旅行は、彼らの暗い世界に小さな風穴を開けようとする試みのようにも思えたのだ。


森のキャンプの明け方、四人のひとり、語り手である「私」ことゴーディが、ただひとりで、すぐ近くで鹿を見る場面が、心に強く残っている。
ゴーディは、その鹿との出会いを、「わたしにとってあのときの小旅行での最高の部分であり、いちばんすがすがしい部分なのだ」と書いている。
みんなに話そうとしたけれど、結局話せなかった、とゴーディは回想する。
「なににもまして重要だということは口に出して言うのが極めてむずかしい」「ことばが大切なものを縮小してしまうからだ」と、このときの気持ちをゴーディは語る。
そして、この小旅行のことを、四人が四人とも、後になってもとうとう誰にも話さなかった、ということが、ゴーディの鹿の話とかさなるのだ。
きっと、この旅の道中と互いの存在の意味も、言葉にならなかった、言葉にしたくなかったのだろう。
「死体」を求めての旅(でも、ほんとはだれも死体なんか見たくはなかった。でもどうしても行かなければいられなかった)の本当の本当の姿は、ゴーディの前に一瞬現れたあの鹿の姿のようにも思えるのだ。
大人になったゴーディは、鹿との出会いを思い出し、「人生のトラブルに出会ったとき、ほとんどなすすべもなく、あのひとときに帰っている」と言う。その思いは、この旅そのものへの思いであるはずだし、きっと、ほかの三人にとっても同様だっただろう。
その後の日々が失意や諦めの連続であったとしても、早く人生を終えることになったとしても、この特別の数日間があって、よかった。


*『マンハッタン奇譚クラブ 〜冬の物語』
クリスマスに語られる物語が中心に据えられているが、
なにしろ、あの雰囲気、魅了されずにいられない。謎も、タブーもそのままに。
それでも、作中のあのかたがたに言いたいのは、
「ねえ、それでも、そこに留まるの? 離れられないの? 何かの代償、ではないの? あれもこれも。」
そんなこと言いながら、わたしもそこに招かれてみたい気がする。
そうして、部屋部屋をまわり、語られる物語に耳を傾ける。大きな本棚の前にたち、他所では出会うことがないだろう本たちの背中を一つ一つなぜていくのだ。
それから、
「はい、いつも物語がございますとも。」「おやすみなさいませ」
と、スティーブンズに送り出してもらいたい。
いつも物語はある。
この誘惑に抗えるだろうか。