『文字の消息』 澤西祐典

文字の消息

文字の消息


町に文字が降る。文字がふりつもる、『文字の消息』
人の体が徐々に砂糖に変わっていく病があるという、『砂糖で満ちてゆく』
ある村の入り江に打っちゃられたままの廃船(一名幽霊船)『災厄の船』
三つの物語は、そこだけ見れば、なんという不思議、心の内から「そんなことが起こるものか」と醒めた声が聞こえそうな現象を扱っている。
しかし、これらは、それを取り巻く人々の物語であるよ、といったなら、もはや現実離れした、とはいえなくなる。
この既視感はなんだろう。身に覚えがある、という感覚は。


表題作『文字の消息』は、文字の降る町に住むS夫人から、文字の降らない町に住むフミエさんに送る手紙(後には、夫のS氏の手紙も)で綴られた物語である。
しかし、この手紙は「書かれた」のではなくて、一通一通が、降り積もる文字を集めて作った作品なのだ。
台紙の上に、一文字一文字(一部首一部首)ピンセットで貼り付けながら根気よく作り上げていく手紙。
そうやって長い手紙を作り上げるS夫人の姿を思い浮かべると、病的な怖さを感じて、ぞぞっとする。
妻の手紙・夫の手紙それぞれから、聞いていて(?)イライラするほどの気持ちのすれ違いが読み取れる。なんとも孤独なひとりひとりが見えてくる。さらに近所の人たち、町の人たち、みんな繋がりを失くしているような感じだ。自ら断ちきって、自らを追い込んでいくようにも見える。
なんて寒々とした光景。
この町は、文字が降ったからこうなったのか、文字が降る前からこうだったのか。
繋がりあえない人々の間を、無気力が埋めていくようだ。行き違いの果ての仲の良さも、もしやそれって、怒ったり罵ったりする力さえも無くなった成れの果てでは?と勘繰りたくなってしまった。


そもそも、文字も砂糖も、わたしには大好きな言葉だ。そこからイメージする性質の良さが好きなのだ。
けれども、文字に勝手にイメージを乗せることが間違っているのだろうか。
いやいや、文字には意味があるだろう。イメージだってあるだろう。使命だってあるだろう。
そういうものがみんななくなる。符号でさえもなくなる。
それが、こんなに不気味に感じさせる。こんなに落ち着かない気持ちにさせる。


得体が知れないものに徐々に侵されていく、侵されているのを分かっていながら、どうすることもできずにいる、その身もだえするような痒さ、気持ち悪さ、おぞましさ。
それなのに、物語を静かに語る文章に、いつのまにかゆったり浸ってしまう、もうしばらく浸っていたいと願っているこの思いはなんだろう。