『ねずみ女房』 ルーマ―・ゴッデン(作)/W・P・デュボア(画)

ねずみ女房 (世界傑作童話シリーズ)

ねずみ女房 (世界傑作童話シリーズ)


先日読んだスティーヴン・キング刑務所のリタ・ヘイワース』(『ゴールデンボーイ』より)から、思い出していたのが、『ねずみ女房』だった。


ウィルキンスンさんの家に住む雌ねずみは、(食べ過ぎで)具合の悪い雄ねずみをくるんでやり、子ネズミたちを産み育て、巣の中をきれいにし、エサを探し、ものを考える時間もなく駆け回っている。
その雌ねすみが、ある日出会ったのが、金の鳥かごに入れられたハトだった。
ハトは、男の子に捕まって、この家に連れてこられたのだが、上等のエサもきれいな水も一切食べない。飲まない。
豪華な鳥かごのなかで、自由な日々を恋しがって日々弱っていく。
ハトが語る外界の話に、雌ねずみは、空を飛ぶことを、飛んで見える景色やさまざまな風のことを、まるで自分自身が体験したかのように思い浮かべる。


やがて、雌ねずみは悟る。「はとは、あそこ(窓の外)にいなければいけなかった」のだと。
自由を奪われ自由に焦がれ弱っていくハトは、物を考える暇もない雌ねずみそのもののようだ。
ハトをとらえた金の鳥かごは、雌ねずみの暮らしにも重なる。
この後、雌ねずみは力を尽くしてハトを自由にしてやる。
ハトはだれの力で自由になったかも知らずに飛び去っていく。
見送る雌ねずみは涙をこぼす。
「もうだれも、丘のことや、麦畑のことや、窓のことを話してくれるものはいなくなった。わたしはそういうものを忘れてしまうだろう」


けれども、ハトが飛び去った空に、雌ねずみは星を見る。
星を見て考える雌ねずみが、『刑務所のリタ・ヘイワース』のレッドと重なるのだ。
アンディーが刑務所を去っていったあとのレッドの言葉「アンディーこそ、やつらがどうしても閉じこめられなかったおれの一部」に、やっぱりレッドも星を見たのだ、と感じている。
また、「やつらがどうしても閉じ込められなかった(=やつらがどうしても閉じ込めておきたかった)」わけが、『ねずみ女房』で、雌ねずみが初めて雄ねずみに耳をかじられた理由でもある、と思うのだ。
(星が何なのか知っているけれど自分では決して見ることのできないものは、自由に星を見るものを憎むことがあるかもしれない。)
星とはなんなのだろう。


『ねずみ女房』も『刑務所のリタ・ヘイワース』も、見えないものを見る目の話、ともいえるんじゃないだろうか。
見えないけれどある、を知る人の豊かさの話。
「星を見るということは、ごくわずかなねずみにしかできないことです」と『ねずみ女房』の物語はいう。
雌ねずみは気がつくのだ。
「だって、わたし、自分で見たんだもの。はとに話してもらわなくても、わたし、自分で見たんだもの。わたし、自分の力で見る事ができるんだわ」
それは、『刑務所のリタ・ヘイワース』で、レッドが上記引用の言葉に続けて言う、この言葉を思い起こさせる。
「そのおれの一部は、ほかのおれがどんなに年をとっていても、どんなにくじけて、おびえていても、喜びに包まれるだろう」
雌ねずみもレッドも、きっと同じ星を見ている。