『イスラームから考える』 師岡カリーマ・エルサムニー

イスラームから考える

イスラームから考える


ちょっと前に読んだ『私たちの星で』(梨木香歩×師岡カリーマ・エルサムニー往復書簡)で、この本を知った。
難しいのではないか、わたしにも読めるかな、と思ったけれど、大丈夫、というより、おもしろかった!
何しろ、この本は、「悪の枢軸を笑い飛ばせ」と、コメディアンのディーン・オベイダッラー(アラブ系米国人)が企画した「悪の枢軸ツアー」から話が始まるのだから。


難しく語ってはいないけれど、ほんとうは難しい話(の入り口)なのだと思う。おもしろがって読んでいるうちに、自分の偏見や思いこみに気がついて、かなり恥ずかしくなったり、反省したりした。
イスラム教がわかるわけではない。わからなくていいのだ、と思う。そんなに簡単にわかるかもしれない、と考えること自体、怖ろしく失礼な話だとも思った。
わたしにとても大切なものがあるように(たとえなくても)、ほかのだれかの大切なものに敬意をもちたい、そう思った。


たとえば、デンマークでの、預言者ムハンマドを風刺する漫画をめぐる騒動について。
謝罪を要求するイスラム教徒に、「表現の自由」を理由にデンマーク政府は拒否する。
「我々は、表現の自由と相反する考え方は認めない。したがってその自由の行使によって一三億の人々の尊厳が傷つけられてもかまわない」という姿勢は、表現の自由という宗教の原理主義者とも呼べるだろう、と著者は書いている。
(こういう考え方、別の場面において、自分のなかにもないか、と、ちょっとどきっとする)
「宗教をぬきにしても、表現の自由には限界がある。その境界線を引くのは、私たち人間の品位だ。人間の品位に文化の違いはない」という言葉が強く印象に残った。


たとえば、「アラブ人じゃありませんように、イスラーム教徒じゃありませんように。世界じゅうのどこかで爆発があるたびに、私たちは心の中でまずそう叫ぶ」
そして、巷間では、罪のない一過性の雑談の感覚で「中東の人たちの感性っていうのは本当にわからないね」という言葉が聞こえる。
著者(をはじめとする沢山の人びとに)理不尽な肩身の狭さを感じさせてしまう側に、わたしもいたのだろうか、と思うといたたまれない気持ちになってくる。


著者は、エジプト人の父と日本人の母をもつ。エジプトで教育を受け、国籍は日本にあるが、活動する場所はたぶん世界じゅう。
ある件については、(西洋人の友と)対話する元気がない、気力がない、話しても無駄だ、との思いを越えて、著者は、
「私のように日常的に西洋人と接している人間が、彼らのメンタリティーに合った言葉でイスラーム世界の言い分を説明する機会が与えられたならば、無駄にしては単なる怠慢だ」との思いに至る。
そして、ゆるやかに、イスラームの周囲を案内してくれた。
ヒジャーブ(をはじめとした服装)が、イスラム教とは本来関係のないものであることや、もともとの教えでは男女の地位は平等であったことも、知った。
あるいは、いきなり、クルアーンコーラン)の前に連れていってくれて、翻訳できない理由を語ってくれる。クルアーン自体はわからなくても、そうか、それほどに美しいものなのかと思う。(その美しさは民族や言語によって捉え方がちがうのだな)そして、ムスリムに人たちにとってのこの「本」の大切さを、うっすらと(あるいは、イメージ的に)感じ始める。


また一方で、当たり前と思っていた物、のほほんと見過ごしてきたものを、立ち止まってもう一度違う光のもとで見せられたようで、はっとすることもある。
たとえば、「愛国心」という言葉。
「私が世間で愛国心とされるものにアレルギー反応を起こすのは、仮に私が愛情の対象として「祖国」というものを限定したとき、そこから誰かが排除されるだけではなく、誰かが限定する「愛する祖国」からは私が排除されるからなのだ」という言葉が心に残る。
愛国心」という美し気な言葉には別のざらざらした面が隠れていることに気がつく。


ガチガチな論文調ではなくて、説得でもなくて、「ああ、そういうことならわたしにもイメージできる」というところをふわりと触れさせてくれたのだと思う。
この手触りの感覚、大切にしよう。