『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』 内田洋子

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語


「何世紀にも亘り、その村は本の行商で生計を立ててきたのです。今でも毎夏、村では本祭りが開かれていますよ」
というその村は、イタリア北部の山岳地帯にある過疎の村なのだ。
モンテレッジォ村。
本の行商人たちは、この村から、籠いっぱいの本を担いでイタリアじゅうを旅した。そのおかげで各地に書店が生まれ、〈読むということ〉が広まったのだという。
この話を著者内田洋子さんにしてくれたのは、ヴェネツィア古書店の主人であり、彼もまた本の行商人の末裔だった。
この古書店がどんな店であったかといえば、
「本の山の裾から一歩ずつ登っていき、ときどきトンネルをくぐり抜けたり獣道に迷い込んだりする。本の尾根からのヴェネツィアの眺めは、店へ行くたびに変わった」(1章)
「照明で煌々と照らされ過ぎることなくまた暗過ぎず、広くもなく狭くもない店内に、二、三人ほどの客。そして店主。あとは本。しかも扱うのは古書だけだ。ときおり聞こえるのは、ページを捲る音くらい。」(2章)
ああ・・・。なんて居心地のいい本なんだろう!
美しい本だ。ほとんど1ページ置きくらいに挟まるカラー図版は、本と本売りの魅力を文章とともに語っている。


ところが、話はいきなり、地理と歴史になる。
本も本屋もどこいった?
でも、
この山間の過疎の村が、なぜ村をあげて本を売ることになったのか、なぜこの村にイタリアの書店のルーツがあるのか、
それらは、当然湧いてくる疑問であり、その疑問の答えは、はるか遠くのほうまで探しにいかなければならなかった。
本売りの村の根は遠く深かったから。
しかし、中世にまでさかのぼるとは。
村は険しい山のなかにあるが、嘗ては交通の要であったそうだ。領主一族のファミリーヒストリーが紐解かれていく。この山の中にダンテも登場し、村が本を見出すまでの過程が丁寧に明かされていく。
なんてミステリアス。


そして、やっと本。本と本屋の話になる。
まるで冒険物語を読んでいるときのようなわくわくが胸に湧きあがってくる。
本の行商人たちは逞しかった。
イタリア中、ヨーロッパ各地に、ときにはアメリカまでも本を運んだ人びとの足取りに胸が熱くなる。
彼らは時には危険を冒して、文化の密売人にもなった。
独裁政権下に各地の革命分子たちへ禁書を運んだのも行商人たちだったそうだ。


モンテレッジォの行商人は本を(ほとんど)読まない。けれども、彼らが「これは売れる」と言った本は間違いなく売れたそうだ。
「本が好き」というけれど、売るのが好きなのと、読むのが好きなのは別ものだ。
「本」への愛の多様さに、世界が広がる心地がする。
「モンテレッジォ人たちがしないで、誰がする。文化は重たいものなのです」
彼らが運んだのは、本でありながらそれ以上のもの「文化」そのもの。
本を待つ人びとにとっての一冊の本の重さは、重量以上のものだったに違いない。


現在、村の行商人たちは、イタリアのあちこちに散っている。「書店」を営んでいる末裔たちは多い。
内田洋子さんを村に案内したのは、すでに村を離れてしまった(離れざるを得なかった)人びとだ。村を離れてもなおの、彼らの村への愛情の深さに驚くのだけれど、それは、やはりこの村が行商の村であり、彼らが行商人たちの子孫だからだろうかと思う。
行商人たちにとって、村はいつでも旅だつ場所、そして、いつかは帰るはずの愛しい場所なのだろう。